処暑蝉採り猫
26.8.19東京都清瀬市
8月23日、二十四節気の「処暑(しょしょ)」が訪れました。
「暑を処(お)く」または「暑を処(おさ)む」。
「処」はここでは「落ち着かせる」「おさめる」の意味でしょう。
江戸時代に著された、おなじみ『暦便覧』[太玄斎 天明7年(1787)]によれば、
「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすればなり」とあります。
暑さがピークを過ぎ、後退し始める時期という説明をしています。
ここまでが暑さの峠。登り詰めたところにいたわけです。
26.8.19 東京都清瀬市
野原に面した道の辺(みちのべ)
大きな車の下の日陰で 溶けるようにお昼寝しているのは
あの みやによく似た のぞき猫
にやちゃーん!!
“ ン ”
耳が立って ちょっと頭を起こしましたが
“ ネム ”
頭が向こう側に倒れました。
眠さの勝ち
私がわかったのかどうかはわかりませんが、危険ナシ との判断なのでしょう
暑かったね。
これから少しは涼しくなるかな。
あたりは蝉時雨
喧しいようで どこか涼しげにも聞こえる不思議な響きです
みんみん蝉 26.8.23 東京都清瀬市
蝉時雨の公園の中に、いつも仕草が奇妙なチャー君
“ ヒサシブリダネ ”
ひさしぶり 元気でいたかな
“ ウン セミトリニモ アキタ ”
やっぱり 蝉採ってましたか
“ ソレハ ナツダカラネ ”
準備運動なの? 相変わらずの軟体ぶりです
よく見ると、足下には蝉の亡骸(なきがら)も多いこの時期、
さらによく見ると、蝉の一部が欠けているものも目に付きます。
猫は近くで動くものを反射的に狩りの対象にするので、瀕死の蝉が捕まるのは
夏の虫の運命です。
漱石先生の猫氏も、この時期の「セミ取り運動」を語っています。
取つて面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て
来ない。八つ口の綻びから秋風が断わりなしに膚を撫でてはつくしよ風邪を
引いたと云ふ頃、熾(さかん)に尾を掉(ふ)り立ててなく。善く鳴く奴で、
吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思はれるくらゐ
だ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云ふ。...中略...
これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くの
か、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によつては蝉の研究上少なから
ざる関係があると思ふ。人間の猫に優るところはこんなところに存するので、
人間の自誇る点もまたかやうな点にあるのだから、今即答が出来ないならよく
考へておいたらよからう。
夏目漱石『吾輩は猫である』
ツクツクボウシ26.8.23 東京都清瀬市
オシイツクツクとはツクツクボウシ。もう盛んに鳴いていますね。
「夏の末」になっているのです。
ちなみに、猫氏の「セミ取り運動」は「蟷螂狩り(とうろうがり)」の次に紹介されている「運動」です。「セミ取り」の次は「松滑り」。これは純粋な木登りだそうです。
街中(まちなか)の猫でしょうが、この猫殿は移りゆく自然観察の中によく収まる姿で遊んでいます。
26.8.14 東京都清瀬市
夜も蝉の声の聞こえるこの頃のこと、
御町内の猫ももちろん「セミ取り運動」に興じています。
“ カマキリ(蟷螂)ハ オモシロイケド ダマッテルカラ セミノホウガイイナー ”
まだ若いけれど 風格のあるワガハイ君です
“ ウチノオニワニモ イッパイ トラレニ キテル ”
外を出歩かない我が家のふたりでさえ 蝉採りに無関係ではいません。
なぜか、夜に窓際近くに飛び込んできて、ジージー暴れる蝉が絶えないのです。
“ キテル キテル ”
“ アソコニ イルネ ”
濡れ縁で暴れている蝉に夢中になっています。
中には 細く開けてある天窓から飛び込んでくる不運な蝉もあり、
屋内に入った蝉は間違いなくふたりの獲物になります。
猫の狩猟能力は実に侮れないものです。ひたちでさえ。
“ ジツリョクアルンダケド シマッテルンダヨ ”
さて、近代の詩人で彫刻家でもあった高村光太郎は 好んで蝉を彫りました。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを絶ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
「蝉を彫る」抜粋 高村光太郎
漱石の猫氏が「横風で(偉そうにしていて)行かん」と評したミンミン蝉の様子を、
光太郎は 上等な、ある種高貴なものに見ているようです。
好きな昆虫はほかにあっても、造形として蝉には特段の魅力を感じるということ
を、文章(「蝉の美と造形」)にも書いています。
高村光太郎「蝉3」
盛んな蝉時雨も 耳を澄ませば夏の終わりの配合です。
間もなく もっと透き通ったヒグラシの声が響きはじめます。
26.8.23 東京都東村山市