墨場必携:訳詩・近現代詩 林檎
22.10.31 東京都清瀬市
「初恋」 島崎藤村
まだあげ初[そ]めし前髪[まへがみ]の
林檎[りんご]のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛[はなぐし]の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅[うすくれなゐ]の秋の実[み]に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃[さかづき]を
君が情[なさけ]に酌みしかな
林檎畑の樹[こ]の下に
おのづからなる細道は
誰[た]が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
22.11.3 長野県佐久市
「斷章六十一」その五 北原白秋(「思ひ出」所収)
暮れてゆく雨の日の何となきものせはしさに
落したる、さは紅き実[み]の林檎、ああその林檎、
見も取らず、冷かに行き過ぎし人のうしろに、
灰色の路長きぬかるみに、あはれ濡れつつ
ただひとつまろびたる、燃えのこる夢のごとくに。
22.11.4 東京都清瀬市
「あかき林檎」 北原白秋(「思ひ出」所収)
いと紅き林檎の實をば
明日[あす]こそはあたへむといふ。
さはあれど、女の友は
何時[いつ]もそを持ちてなかりき。
いと紅き林檎の實をば
明日こそはあたへむといふ。
22.11.3 長野県佐久市
「白き響」 八木重吉(「秋の瞳」所収)
さく、と 食へば
さく、と くはるる この 林檎の 白き肉
なにゆゑの このあはただしさぞ
そそくさとくひければ
わが 鼻先きに ぬれし汁[つゆ]
ああ、りんごの 白きにくにただよふ
まさびしく 白きひびき
22.11.10 東京都清瀬市
「放歌」 中島敦「和歌でない歌」より
わが歌は
拙なかれどもわれの歌他[こと]びとならぬこのわれの歌
我が歌は
をかしき歌ぞ人麿も憶良もいまだ得詠まぬ歌ぞ
我が歌は
短册に書く歌ならず街を往[ゆ]きつゝメモに書く歌
わが歌は
腹の醜物[しこもの]朝泄[ま]ると厠[かはや]の窓の下に詠む歌
わが歌は
吾が遠つ祖[おや]サモスなるエピクロス師にたてまつる歌
わが歌は
天呼べども起きぬてふ長安の酒徒に示さむ歌ぞ
わが歌は
夕餐[ゆふげ]の後にして林檎食[を]しつゝよみにける歌
わが歌は
朝[あした]の瓦斯[ガス]にモカとジヤヴアのコーヒー煮つゝ
よみにける歌
わが歌は
アダリンきかずいねられぬ小夜更床[さよふけどこ]によみにける歌
わが歌は
呼吸[いき]迫りきて起きいでし曉[あけ]の光に書きにける歌
わが歌は
麻痺劑強みヅキ/\と痛む頭に浮かびける歌
わが歌は
わが胸の邊[へ]の喘鳴[ぜんめい]をわれと聞きつゝよみにける歌
22.11.10 東京都清瀬市
22.11.10 東京都清瀬市