墨場必携:訳詩 近現代詩 月光 月の光
20.10.13 東京都清瀬市
「ファウスト」 ゲーテ
訳 森鴎外
いと深き甘寝[うまい]の幸[さち]を護りて、月のまたき光華は
上にいませり。
羽黒蜻蛉 22.8.12 東京都清瀬市
「伴奏」 アルベエル・サマン
訳 上田敏『海潮音』所収
白銀[しろがね]の筐柳[はこやなぎ]、菩提樹や、榛[はん]の樹[き]や......
水[みづ]の面[おも]に月の落葉よ......
夕[ゆふべ]の風に櫛けづる丈長髪[たけなががみ]の匂ふごと、
夏の夜の薫[かをり]なつかし、かげ黒き湖[みづうみ]の上[うへ]、
水薫[かを]る淡海[あはうみ]ひらけ鏡なす波のかゞやき。
楫[かぢ]の音[と]もうつらうつらに
夢をゆくわが船のあし。
船のあし、空をもゆくか、
かたちなき水にうかびて
ならべたるふたつの櫂[かい]は
「徒然[つれづれ]」の櫂「無言[しじま]」がい〔櫂〕。
水の面の月影なして
波の上の楫の音[と]なして
わが胸に吐息ち〔散〕らばふ。
22.8.12 東京都清瀬市
「月光」 ----Judith Gautier----ジュディ・ゴーティエ
芥川龍之介訳 『パステルの龍』所収
満月は水より出で、
海は銀[しろがね]の板となりぬ。
小舟には、人々盞[さかづき]を干し、
月明りの雲、かそけきを見る。
山の上に漂ふ雲。
人々あるひは云ふ、----
皇帝の白衣の后と、
あるひは云ふ、----
天[あま]翔る鵠[くぐひ]のむれと。
22.9.20 東京都清瀬市
「昔の月」 野口雨情「沙上の夢」所収
お前と逢うた
武蔵野に
青い 昔の 月が出た
お前も 見たろ
武蔵野の
畑の中に家が建つ
畑の 中の 夕雲雀
もう おれは
故郷[くに]へ 帰るぞよ
「月」 佐藤惣之助「季節の馬車」所収
半圓形の天のほとりを
点[とも]り、ともり
月が私たちの頭上に
きれいな光線の航路を描くまへに
船長は月の齡を眺めようし
漁夫は月光と汐の時計を感じ
街道の漂流人は自然のランプを点すであらう
さあ、人人よ、月の前に出よう
われわれの日の光は万人の火であるが
月は精霊を伴とするものの
ひつそりした燈明台ではないか
月が大きく照りわたる晩ほど涙ぐましく
われわれの町や荒磯は
華やかな影の絵模様となる時に
船長よ、漁夫よ、漂流人よ
われわれは自らの生涯を空中に高めて
幽[かす]かで、清涼なる光線の盃をあげ
われわれの静かな影を愛さうではないか。
「月」 佐藤惣之助「季節の馬車」所収
村村の子供ら
みんなして静かに月の前にたつたとき
小さい田舍の洗ひ場は
月の幻燈会の入口だと思ふがよい
色を帯びてゐる若い月が
太平洋をはなれると
白鷺や千鳥が青い隱れ家を與へられ
漁夫は水と空との
二重の燈明世界へはひつてゆくし
あんなにも清らかに帆裝した
光線の船が此方へやつてくるよ。
20.9.10 東京都清瀬市
「のちのおもひに」 立原道造
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
----そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた......
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
20.10.5 東京都清瀬市