墨場必携:散文 蓮 明治時代
22.7.17 東京都東村山市北山公園
麻屋弥右衛門の家に宿す。居北に山を望南田畝平遠なり。庭前蓮池あり。
荷葉傘(からかさ)のごとく花は径(わたり)八九寸許。白花多くして玉
のごとし。此日暑甚しからず。行程八里許。
森鴎外『伊沢蘭軒』
天地は我心なり、又草木の花は我心なり、桜花蓮花の開くごとに我を祭
れ(と云ふ)。
森鴎外『伊沢蘭軒』
※榛軒(伊沢蘭軒の弟子、実子)の遺言の一つ
高野槙の枝の間から、爽(さわや)かな朝風に、微かに揺れている柳の糸と、
その向うの池一面に茂っている蓮(はす)の葉とが見える。そしてその緑の中
に、所所に薄い紅(べに)を点じたように、今朝(けさ)開いた花も見えてい
る。北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい
所である。
森鴎外『雁』
22.7.17 東京都東村山市北山公園
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は青銭[せいせん]を畳むと云つた。
銭のやうな重い感じは無論ない。しかし水際に始めて昨日、今日の嫩[わか]い
命を托して、娑婆の風に薄い顔を曝[さら]すうちは銭のごとく細かである。
色も全く青いとは云へぬ。美濃紙の薄きに過ぎて、重苦しと碧[みどり]を厭ふ
柔らかき茶に、日ごとに冒す緑青[ろくしょう]を交ぜた葉の上には、鯉の躍つ
た、春の名残が、吹けば飛ぶ、置けば崩れぬ珠となつて転がつてゐる。
夏目漱石『虞美人草』
22.7.17 東京都東村山市北山公園
松樹千年の緑を誇らうよりも、槿花一日の栄えを本来の面目とする江戸ツ児に
は、旦々に花新たなる朝顔を愛し、兼ねては汚泥を出でて露の白玉を宿す蓮の清
新を賞する、洵[まこと]にあらそひ難きことどもである。
その朝顔、入谷なるを本場とし、丸新、入又、植惣なんど、黎明より客足しげ
く、昔ながらの朝顔人形、どこまでも江戸ツ児は芝居気があつておかしい。
芝居気といへば、朝顔の夏を入谷なる何がしの寺で、態々かけだしをものしての
伝道布教、麦湯のふるまひに浮き足になりながらでも聴聞してゆく人の多いは、
これも一碗の恩恵に折からの渇を医し得た義理ゆゑもあらうが、場所だけに何や
らん面白い感じがする。
さて朝顔は、ここを本場とはするものの、育ちは亀戸で、さるは恰も田舎人が
漸く都会の生活になれて、やがては東京ツ児となりおほするにも似てはゐまいか。
亀戸の植木屋はとんだ九太夫役を承っつたものだ。
蓮は花の白きをこそ称すれ、彼の朝靄に包まれて姿朧なる折柄、東の空に旭の
初光チラと見ゆるや否、ポツ! ポツ! と静かなる音して、今まで蕾なりし花
の唇頓[とみ]に微笑み、ある限りの人々ただ夢を辿るおもひ、淡い自覚に吾が
うつつなるを辛くも悟り得る際の心地、西の国々の詩人が悦ぶはかうした砌[み
ぎり]の感じでもあらうか。
朝の不忍[しのばず]に池畔のそぞろ歩きすれば、この種の趣致は思ふままに
味はれる。江戸ツ児は常にこの趣致を愛する、然りただそれこれを愛する、余に
は深い意味も何もあつたものではない。
蓮はなほ芝公園にも浅草公園にもある、されど最も憾むべきはお濠の中なるが
あとなくなつたことだ。
柴田流星『残されたる江戸』
22.7.25 東京都東村山市北山公園
明かなる事[こと]日月[じつげつ]にすぎんや。淨[きよ]き事[こと]
蓮華にまさるべきや。
長谷川時雨『尼たちへの消息』
22.7.25 東京都東村山市
22.7.25 東京都清瀬市
"オ散歩ニ キマシタ"
野生の烏骨鶏 というのは珍しい。迷い子?