墨場必携:散文
22.7.3 東京都清瀬市
夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など
降るもをかし。
「清少納言枕草子」一段
22.7.3 東京都清瀬市
淡月[うすづき]は三輪山の上を高く昇っているのに、河原はなんとなく暗い。
涼しい風は颯[さっ]と吹いて来た。川波を逐[お]うて、蛍が淋しいものの
ようにゆらりゆらりと行く。
「ああ、わたしとしたことが、なんでこんなところまで来たのでしょう」
「大菩薩峠」中里介山
螢、淺野川の上流を、小立野[こだつの]に上る、鶴間谷[つるまだに]と
言ふ所、今は知らず、凄いほど多[おほ]く、暗夜には螢の中に人の姿を見る
ばかりなりき。
「寸情風土記」泉鏡花
夜は、はや秋の螢なるべし、風に稻葉のそよぐ中を、影淡くはらはらとこぼ
るゝ状[さま]あはれなり。
「逗子だより」泉鏡花
田越の蘆間[あしま]の星の空、池田の里の小雨の螢、いづれも名所に数へ
なん。魚は小鰺最も佳[よ]し、野郎[やらう]の口よりをかしいが、南瓜
の味拔群也。
「松翠深く蒼浪遙けき逗子より」泉鏡花
22.7.4 東京都清瀬市
障子はあけ放してあっても、蒸し暑くて風がない。そのくせ燭台の火は
ゆらめいている。螢が一匹庭の木立ちを縫って通り過ぎた。
「阿部一族」森鴎外
蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢あり。あはれ、こは少女が魂の
ぬけ出でたるにはあらずや。
「うたかたの記」森鴎外
あの雨をつい昨日のように思う。ちらちらに昼の蛍と竹垣に滴る連翹[れん
ぎょう]に、朝から降って退屈だと阿父様がおっしゃる。
「虞美人草」夏目漱石
22.7.4 東京都清瀬市
「銀河ステーション」
「ケンタウル露をふらせ」いきなりいままで睡っていたジョバンニのとなり
の男の子が向こうの窓を見ながら叫んでいました。
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたって、
その中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集まったように
ついていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねえ」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ言いました。
「銀河鉄道の夜」宮沢賢治
22.6.1 東京都清瀬市
しかしながら太陽がない時にも太陽を創り出すのが、芸術家の役目である。
それらの人々は、自分の小さな燈火をよくともしていた。ただそれは螢の光
ほどのものにすぎなかった。少しも物を暖めないし、辛うじて輝いていた。
「ジャン・クリストフ」ロマン・ロラン
大空のうちに同じ星をながめ、または草の中に同じ螢をながめること。
いっしょに黙っていること。これは語るよりも更に楽しいことである。
「レ・ミゼラブル」ビクトル・ユーゴー
22.6.23 東京都清瀬市