2014年3月26日

第81回 遠き別れに耐へかねて:惜別の歌と猪間驥一


第81回【目次】         
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    * 近代詩 惜別の歌 高楼
    * みやとひたち 花待ち猫




       
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                                    コゲラ 26.3.24 東京都清瀬市

 
     惜別(せきべつ)の歌           中央大学学生歌

    遠き別れに耐へかねて
    この高楼(たかどの)に登るかな
    悲しむなかれ我が友よ
    旅の衣(ころも)をととのへよ

    別れといへば昔より
    この人の世の常なるを
    流るる水をながむれば
    夢はづかしき涙かな

    君がさやけき目の色も
    君くれなゐのくちびるも
    君がみどりの黒髪も
    またいつか見むこの別れ

    君の行くべきやまかはは
    落つる涙に見えわかず
    袖のしぐれの冬の日に
    君に贈らむ花もがな

       
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                                          26.3.24 東京都清瀬市

  三月も末、桜の開花を待ちながら、別離と門出の季節でもあるこの時期にちなんで、このたびは、ある別れの歌を御紹介します。

  中央大学に、学生歌として歌い継がれて来た「惜別の歌」です。
  今年の卒業式でも、式の最後、いよいよの別れに際して、参列者全員によって歌われました。


  この歌は、もとは島崎藤村の『若菜集』所収の詩「高楼(たかどの)」から生まれました。「高楼」は嫁ぎ行く姉とそれを送る妹との惜別のやりとりの形で詠まれた、全く趣の異なる歌でした(墨場必携参照)。

       
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                                       花桃 26.3.24 東京都清瀬市

   学生歌の「惜別の歌」は、第二次大戦中、板橋にあった陸軍造兵廠第三工場に学徒勤労動員に徴用されていた中央大学の学生藤江英輔氏が、昭和20年大雪の2月、友人から示された「高楼」詩にふと曲を付けて歌い始めたのがこの始まりといいます。この歌の生まれた経緯には、藤江英輔氏自身の談話の記録(『本の話』文藝春秋社)があり、歌を生み出した背景にあった戦時下の若者の暮らしと心情の真実も興味深く知ることができます。訥弁であったが信州人らしく理論派で、筋道の通った考え方を好んだというこの友人は、藤村の「高楼」詩を同じ工場に動員されて来ていた東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の学生から手渡されたのだったと言います。その友人を介して藤江氏が詩を見た時には、言葉の一部は原詩からすでに変わっていたものと思われます。


  青春を謳歌すべき学生が軍需工場の労働などいたましいことと、遠い現在からは言えましょうが、どの時代の人も、誰しもが、その時の最善を生きようとしていたに違いありません。労働が殺人兵器の生産であっても、危機に瀕した国のために自分が出来ることを励むのに躊躇はなかったでしょう。そして、その時はそこが青春の場でした。熱い議論も闘わせ、淡い恋もあったようです。ただ、いつももっと近くに死がありました。


  やがてこの歌はその旋盤工場から出征する学徒兵を送る別れの歌に歌われるようになりました。
  同年8月に敗戦で終わる当時の厳しい戦局を思えば、この時期に、出陣の別れに臨む人の胸中とはいかばかりのものであったでしょう。藤江氏に「高楼」詩を届け、青春をともにした友人も出征して帰りませんでした。そのあと藤江氏にも召集令状は届き、準備のために自宅待機している時に、終戦の詔勅を聞くことになりました。


  戦争が終わって、中央大学が再び大学として開いたのは昭和20年10月のこと。この歌は大学に戻った学生に受け継がれ、中央大学の学生歌になりました。また、陸軍造兵廠第三工場に集まった多くの大学生がそれぞれの大学に伝え、卒業して地方へ持ち帰るなどもして、中央大学の外にも広く波及するに至ったといいます。

       
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   昭和23年(1948)から昭和42年(1967)春の定年退職までを、中央大学の商学部で教鞭を執った統計学の泰斗猪間驥一教授(いのまきいち 1896~1922)は、高度な専門の学識とも別に、秀でた語学力を背景に外国語の詩歌を愛唱し、叙情豊かな翻訳詩なども残した教養人でした。昭和41年の暮れ、退職を前にして、猪間教授は日本の大学ではまだほとんど例がなかった告別講演(最終講義  Farewell address)を行いました。教授が最後の授業で学生たちに語りかけたのは、在職中にヨーロッパを訪れた際のある見聞でした。それは、

  ウィーン大学の正面玄関にある女神の像の台座には正面に「栄誉、自由、祖国」とあり、その右側面には「わが大学の倒れ し英雄を讃えて」、と彫られていたこと。
  また、ハイデルベルグ大学のメンザ(学生食堂)の入り口の上には、
  「喜びのつどひにありても、うたげの装ひに輝く広間にありても、
   汝らのために倒れたる英雄を思へ。
   幸福の中にありて、辛酸のかつての年を忘るな。
   汝らのために死せる者はなほ生きてありと思へ」
との趣旨が記されてあったこと。


  一旦事(こと)に臨んで、ペンを捨て、戦場に赴き、そのまま帰らなかった若者たちが居たこと。今の世が、その人々の犠牲の上に築かれていることを大学は忘れない、という宣明を、猪間教授はウィーンとハイデルベルグで見て来たというのです。
  それに続けて、

 「中央大学にはそういう像もなく、碑銘もない。しかしこの『惜別の歌』がある」

と述べます。

 「これを歌われて、戦いに赴いて、倒れた英雄はわが大学にも少なくなかったのだ。
  今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。私は諸君が
  『惜別の歌』を歌うとき、普通には単なる惜別の情をそれに託するのでもちろんいい
  のだが、十度に一度、五十ぺんに一ぺんは、この歌がいかなる由来に基づくものか
  を思い出されんことを望む」と。
             「定年退官記念講義」(昭和41年12月1日)より抜粋
             猪間驥一著『なつかしい歌の物語』(音楽之友社)所収

  「惜別の歌」が歌い継がれて二十年以上が経過した頃のことです。

       
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                                          26.3.15 東京都清瀬市

  藤村の「高楼」から、学生藤江英輔氏の曲を得て全く別の悲痛な別れを歌うものになったこの「惜別の歌」は、中央大学において、美しい青春の意気と犠牲とを語り継ぐモニュメントであると言えます。

  質実剛健を校是とし、実学の府をもって自認する中央大学が一方に携えて来た奥深さの証(あかし)、陰影深い知的財産でありましょう。猪間驥一という、まことに尊敬すべき碩学の記憶とともに。

       
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                                          26.3.24 東京都清瀬市
  
  


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