第14回 神泉苑の花宴:嵯峨天皇の詩宇宙と空海
第14回【目次】
* 漢詩
* みやとひたち
染井吉野 23.4.4 東京都清瀬市
過半靑春何處催
和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐
爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出
造化寧假丹靑筆
過半(くわはん)の青春(せいしゆん) 何の催ほす所ぞ
和風数(しばしば)重(しき)りて 百花(ひやくくわ)開く
芳菲(はうひ)歇盡(けつじん)するに
駐(とど)むるに由(よし)無し
爰(ここ)に文雄(ぶんゆう)を唱(よば)ひて
賞宴(しやうえん)に来たる
見取(けんしゆ)す
花光(くわくわう)林表(りんぺう)に出づることを
造化(ざうくわ)
寧(なに)ぞ仮(か)らん丹靑(たんせい)の筆
※青春:春の意。四季をそれぞれ象徴的な色で呼ぶ言い方。
「過半の青春」は春が半ば過ぎたあたり、陰暦二月の中頃過ぎ
染井吉野 23.4.4 東京都清瀬市
春も半ばを過ぎた頃、何がそうさせるのか、
やわらかな風がしきりに吹いて、
あまたの花がものにせかされるように咲くことである。
芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。
そこで、文雅の友に呼びかけて、
(優れた詩人である人びとは)花を愛でるこの宴にやって来たのである。
花園に入ると、輝く花の光が林の外にまで溢れているのがはっきりとわかる。
造化の神の造りなしたもうこの美しさは、
人工の赤青の絵の具の筆を借りる必要があろうか。
染井吉野 23.4.5 東京都清瀬市
詩は嵯峨天皇の御製「神泉苑花宴賦落花篇(神泉苑の花宴にして「落花篇」を賦す)」から、その冒頭の六句です。二十四句からなる長編詩で、文例にはここに挙げた六句を含む始めの十句を挙げてあります。
神泉苑は平安京ができるとすぐに、当時の大内裏の南側に隣接して造営された禁裏の大庭園です。
題にある「落花篇」の「篇」は、古詩の種類のひとつである楽府(がふ)の題によく付きます(今回の詩の詩形は七言[一句が七文字で構成される]の中に途中三言の句が四句混じる雑言体の詩になっており、典型的な楽府の形ではありません)。
春も半ばを過ぎる頃、風もおだやかに柔らかくめぐる中、何ものかに促されるように、せき立てられるように、いろいろな種類の花々が一気に開き出す。そこから詩が始まります。
染井吉野の前の花海棠 23.4.9 東京都清瀬市
あまたの花は開き、盛んな春を謳歌しているけれど、やがてその香は失せ、終わりの時が来るのはどうしようもありません。そこで、この一時の輝きを愛惜しようと人びとを呼んだのだ、と詩は語り出します。
染井吉野の前の花海棠 23.4.9 東京都清瀬市
嵯峨帝が「文雄」すなわち文芸に優れた人たちを呼んだとあるのは、もちろんそこで花をただ観賞するだけではなく、詩を作ることが想定されているからです。この「宴」は詩の宴なのです。
三春滝桜 23.4.3 東京都清瀬市
「藤原薬子の変」が鎮圧されたあとの嵯峨天皇の治世(810〜822)から弟の淳和天皇の治世(823〜832)、実子の仁明天皇の治世(833〜850)にわたる約三十年間は政治的には安定し、長い平和の時代が続きました。文化は平和の時期が長く続く時に発達の度を増すとされています。平安初頭のこの期間は、まさにさまざまな方面にわたって文物の発達の著しい時期でした。
宮廷貴族を中心に漢詩を作る人口も拡大しました。短い期間に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』と、勅撰の漢詩集(通称「勅撰三集」)が相次いで編纂されたことが、その際立った隆盛を反映しています。
山桜 23.4.1 東京都清瀬市
嵯峨天皇自身が優れた漢詩作者であったことは以前にもお話ししたとおりです。さらに、この神泉苑の宴のように、天皇が漢詩を詠み、臣下がそれに和すというかたちで数々の詩が詠まれたことが「勅撰三集」を始めとして多数記録に残っています。機会を設けて呼びかけ、まず天皇が自ら作り、人びとに作詩させる、という方式で、この時期を代表する数々の詩は出現しました。嵯峨帝こそが、この漢詩の時代の圧倒的な中心人物だったのです。それはあたかも嵯峨帝を中心に多くの貴族詩人が惑星のようにとりまく詩の宇宙ででもあったかに見える漢詩世界です。
この神泉苑の詩宴は、『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日の記事に「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし、文人に命じて詩を賦せしむ」とある時のものか、または、弘仁四年(813)五月二日の「花の宴」かの、どちらかであると推定されます。
弘仁三年の記事の続きには「花宴(かえん)の節(せつ)、此(ここ)に始る」とあるのが目を引きます。
「花宴(はなのえん:「かえん」に同じ)」は『源氏物語』の巻名にもあり、平安中期には花(主に桜)を賞翫しながら漢詩を作って遊ぶ典雅な催しとしてすでに通っていたことがわかります。その始まりが嵯峨天皇の神泉苑の詩宴だったというのです。
さて、時代の巨人空海も、詩の宇宙においては嵯峨天皇の一惑星であったかもしれません。空海の詩は宗教家の詩で、釈教や思想的領域に重きがあり、意見や意図がはっきりわかる一方で文学的には評価されることがありませんでした。それも人物を表しているとはいえます。
神泉苑にはその宗教家空海の逸話が残っています。
そもそもこの庭園には龍神(善女龍王)が住むと言われていました。龍神は雨を司ります。『今昔物語』の語る物語です。
天長元年(824)日照りが続き、神泉苑の池も干上がりそうになった。
神泉苑の池は大切な池で、それが干上がると都は滅ぶと言われていた。
嵯峨天皇は東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)に雨乞いの祈祷をさせた。
交互に祈ったが効かないので、空海は天上界を覗きに行ったところ、龍神
善女龍王は邪悪な呪法を受けてインドで壺に閉じこめられていたことがわ
かった。空海は法力でインドにいた龍神を解放し、日本に連れ戻した。
そののち雨は三日三晩降り続いた。
この功によって、神泉苑は以後東寺の管轄下に入るようになったと言います。
西寺の守敏大徳という人については記録がなく、どのような人であったかは分かりません。この祈祷合戦のあと、空海を逆恨みしたという後日談もありますが、始めから英雄の引き立て役ですからそういう役回りなのでしょう。
伝説の多い空海ですが、水に関係する一連の物語はあるようです。現代の人であったら、きっと放射性物質の浄化がその伝説に加わるのでしょう。
山桜 23.4.4 東京都清瀬市
* 漢詩
* みやとひたち
染井吉野 23.4.4 東京都清瀬市
過半靑春何處催
和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐
爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出
造化寧假丹靑筆
過半(くわはん)の青春(せいしゆん) 何の催ほす所ぞ
和風数(しばしば)重(しき)りて 百花(ひやくくわ)開く
芳菲(はうひ)歇盡(けつじん)するに
駐(とど)むるに由(よし)無し
爰(ここ)に文雄(ぶんゆう)を唱(よば)ひて
賞宴(しやうえん)に来たる
見取(けんしゆ)す
花光(くわくわう)林表(りんぺう)に出づることを
造化(ざうくわ)
寧(なに)ぞ仮(か)らん丹靑(たんせい)の筆
※青春:春の意。四季をそれぞれ象徴的な色で呼ぶ言い方。
「過半の青春」は春が半ば過ぎたあたり、陰暦二月の中頃過ぎ
染井吉野 23.4.4 東京都清瀬市
春も半ばを過ぎた頃、何がそうさせるのか、
やわらかな風がしきりに吹いて、
あまたの花がものにせかされるように咲くことである。
芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。
そこで、文雅の友に呼びかけて、
(優れた詩人である人びとは)花を愛でるこの宴にやって来たのである。
花園に入ると、輝く花の光が林の外にまで溢れているのがはっきりとわかる。
造化の神の造りなしたもうこの美しさは、
人工の赤青の絵の具の筆を借りる必要があろうか。
染井吉野 23.4.5 東京都清瀬市
詩は嵯峨天皇の御製「神泉苑花宴賦落花篇(神泉苑の花宴にして「落花篇」を賦す)」から、その冒頭の六句です。二十四句からなる長編詩で、文例にはここに挙げた六句を含む始めの十句を挙げてあります。
神泉苑は平安京ができるとすぐに、当時の大内裏の南側に隣接して造営された禁裏の大庭園です。
題にある「落花篇」の「篇」は、古詩の種類のひとつである楽府(がふ)の題によく付きます(今回の詩の詩形は七言[一句が七文字で構成される]の中に途中三言の句が四句混じる雑言体の詩になっており、典型的な楽府の形ではありません)。
春も半ばを過ぎる頃、風もおだやかに柔らかくめぐる中、何ものかに促されるように、せき立てられるように、いろいろな種類の花々が一気に開き出す。そこから詩が始まります。
染井吉野の前の花海棠 23.4.9 東京都清瀬市
あまたの花は開き、盛んな春を謳歌しているけれど、やがてその香は失せ、終わりの時が来るのはどうしようもありません。そこで、この一時の輝きを愛惜しようと人びとを呼んだのだ、と詩は語り出します。
染井吉野の前の花海棠 23.4.9 東京都清瀬市
嵯峨帝が「文雄」すなわち文芸に優れた人たちを呼んだとあるのは、もちろんそこで花をただ観賞するだけではなく、詩を作ることが想定されているからです。この「宴」は詩の宴なのです。
三春滝桜 23.4.3 東京都清瀬市
「藤原薬子の変」が鎮圧されたあとの嵯峨天皇の治世(810〜822)から弟の淳和天皇の治世(823〜832)、実子の仁明天皇の治世(833〜850)にわたる約三十年間は政治的には安定し、長い平和の時代が続きました。文化は平和の時期が長く続く時に発達の度を増すとされています。平安初頭のこの期間は、まさにさまざまな方面にわたって文物の発達の著しい時期でした。
宮廷貴族を中心に漢詩を作る人口も拡大しました。短い期間に『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』と、勅撰の漢詩集(通称「勅撰三集」)が相次いで編纂されたことが、その際立った隆盛を反映しています。
山桜 23.4.1 東京都清瀬市
嵯峨天皇自身が優れた漢詩作者であったことは以前にもお話ししたとおりです。さらに、この神泉苑の宴のように、天皇が漢詩を詠み、臣下がそれに和すというかたちで数々の詩が詠まれたことが「勅撰三集」を始めとして多数記録に残っています。機会を設けて呼びかけ、まず天皇が自ら作り、人びとに作詩させる、という方式で、この時期を代表する数々の詩は出現しました。嵯峨帝こそが、この漢詩の時代の圧倒的な中心人物だったのです。それはあたかも嵯峨帝を中心に多くの貴族詩人が惑星のようにとりまく詩の宇宙ででもあったかに見える漢詩世界です。
この神泉苑の詩宴は、『日本後紀』弘仁三年(812)二月一二日の記事に「神泉苑に幸(いでま)す。花樹を覧(みそな)はし、文人に命じて詩を賦せしむ」とある時のものか、または、弘仁四年(813)五月二日の「花の宴」かの、どちらかであると推定されます。
弘仁三年の記事の続きには「花宴(かえん)の節(せつ)、此(ここ)に始る」とあるのが目を引きます。
「花宴(はなのえん:「かえん」に同じ)」は『源氏物語』の巻名にもあり、平安中期には花(主に桜)を賞翫しながら漢詩を作って遊ぶ典雅な催しとしてすでに通っていたことがわかります。その始まりが嵯峨天皇の神泉苑の詩宴だったというのです。
さて、時代の巨人空海も、詩の宇宙においては嵯峨天皇の一惑星であったかもしれません。空海の詩は宗教家の詩で、釈教や思想的領域に重きがあり、意見や意図がはっきりわかる一方で文学的には評価されることがありませんでした。それも人物を表しているとはいえます。
神泉苑にはその宗教家空海の逸話が残っています。
そもそもこの庭園には龍神(善女龍王)が住むと言われていました。龍神は雨を司ります。『今昔物語』の語る物語です。
天長元年(824)日照りが続き、神泉苑の池も干上がりそうになった。
神泉苑の池は大切な池で、それが干上がると都は滅ぶと言われていた。
嵯峨天皇は東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)に雨乞いの祈祷をさせた。
交互に祈ったが効かないので、空海は天上界を覗きに行ったところ、龍神
善女龍王は邪悪な呪法を受けてインドで壺に閉じこめられていたことがわ
かった。空海は法力でインドにいた龍神を解放し、日本に連れ戻した。
そののち雨は三日三晩降り続いた。
この功によって、神泉苑は以後東寺の管轄下に入るようになったと言います。
西寺の守敏大徳という人については記録がなく、どのような人であったかは分かりません。この祈祷合戦のあと、空海を逆恨みしたという後日談もありますが、始めから英雄の引き立て役ですからそういう役回りなのでしょう。
伝説の多い空海ですが、水に関係する一連の物語はあるようです。現代の人であったら、きっと放射性物質の浄化がその伝説に加わるのでしょう。
山桜 23.4.4 東京都清瀬市