2012年4月22日

第59回 落花狼藉:残りの春を惜しむ


第59回【目次】         
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    * 漢詩
  



      
0415山桜4311.jpg                                       山桜 24.4.15 東京都清瀬市


     落花狼藉風狂後
     啼鳥龍鐘雨打時


      落花(らっか)狼藉(ろうぜき)たり 風の狂したる後
      啼鳥(ていちょう)龍鐘(りょうしょう)たり 雨の打つ時




     ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い
       歴史的仮名遣い表記は漢詩(文例)のページで御覧下さい。

      
0409山桜3202.jpg                                       山桜 24.4.9 東京都清瀬市


  平安時代中期の文人 大江朝綱(おおえのあさつな 886〜958)の七言律詩「惜残春(残[のこん]の春を惜しむ)」から、第三聯の対句です。詩の全体は文例のページに掲載しています。

  春も盛りを過ぎた頃、その残りを惜しむ詩です。散る桜花、わびしく啼く鶯の声に晩春の情が重なります。

      
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  桜は春の象徴であるばかりでなく、一年中を通して日本人の抱く季節美の代表でもあります。この時期の桜の終わりはただに春の終わりを意味するだけでなく、より悲痛な終末感として身に迫るものになるようです。それはいつからか日本人の心象に兆し、大江朝綱の平安中期にはすでにそれは通念であったらしく、ほとんど変わらずに二十一世紀の現代にも脈々受け継がれて来ている感覚です。

      
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 詩は春の嵐が吹き過ぎたあと、枝で老いていた花が力無く地面に乱れ、散らかっているさまを詠んでいます。

  「狼藉」とはもとは狼が野に臥す時、繁った草を無造作に踏み、倒れた草を敷いて寝床にした後の様子であるといいます。とりちらかった様子です。これを地面の落花のさまに用いたのはこの詩がおそらく始めで、「落花狼藉」はこの句に基づいて一般化し今日の慣用表現にまでなりました。この詩句を収録した『和漢朗詠集』の伝統的な人気のほどを裏付ける事実です。

      
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  春告げ鳥とも呼ばれて早春から声を聴いていた鶯は初夏まで啼いています。春の始めには短い啼き方でたどたどしい趣きであった歌声が、桜が散る頃にはもうすっかり上達し、美しい歌を響かせています。しかしその晩春の美声は、嘆きの声であるとか、衰え弱った啼き方であるとか、よくない心象を重ねて詠まれることが実に多いのです。それはもちろん人の心を鶯に仮託しているからに他なりません。鶯本人の心は知らず、詩歌では、晩春の鶯は桜を惜しんでかなしく啼く鳥なのです。この詩句でも「龍鐘」とあるのがそれを表します。「龍鐘」は雨や涙などの水滴が滴り落ちるさま、また疲れて力のない様子の形容にも使われます。春の雨、それは温かいしとしと雨ですが、その雨が降りそそぐ時、飛び悩む鶯は花の終わりを思って濡れながらしょんぼりと泣くのです。

  この何とも切ないわびしさが、桜の終わり、ひいては春の別れを目前にした大江朝綱の「惜残春」の心です。その心情は、そののち一世紀近く経った時も依然として人みなに共有されるものであったからこそ藤原公任は『和漢朗詠集』に撰び入れ、さらにそれが今日に至るまでも愛唱されて来たのです。

      
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  大江朝綱(おおえのあさつな 886〜958)は、祖父音人(おとんど)、父玉淵(たまぶち)と続く学者家系を継承した当代有数の文人でしたが、本人の漢詩集は散逸し、まとまったものがありません。他の人の作中や数々の説話の中、また『和漢朗詠集』に作品の一部が採られるなどして才能は伝えられていますが、より偉大な全容があったに違いなく、多くを整った形で知り得ないことが残念です。御紹介した「惜残春」詩は、この対句が『和漢朗詠集』に採られて愛唱されて来たほか、幸いなことに三蹟のひとり小野道風(894〜966)が筆を執った「屏風土代」と呼ばれる書作品に完全な八句が残って後世に伝えられました。

      
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  屏風は貴族の住まいに欠くことの出来ない調度です。実用品ではありますが、凝った材料に絵画や書作品をあしらって引き出物や贈答品にも使われ、美術工芸の贅を尽くした品も作られました。「屏風土代」として遺る書は、そうした美麗な屏風制作にあたり、貼り込む漢詩作品を、当代を誇る能書の小野道風が担当した際に、道風が清書前の下書き(土代)に書いた草稿と推定され、蹟は道風真筆と確定されています。そして、書かれていたのが大江朝綱の律詩八首と七絶四首でした。
    
       
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惜殘春b.jpg              『屏風土代』 大江朝綱詩「惜残春」小野道風筆


  『日本紀略』に「命大内記大江朝綱、作御屏風六帖題詩、令小内記小野道風朝臣書之(大内記大江朝綱に命じて、御屏風六帖の題詩を作らしめ、小内記小野道風朝臣をして之を書かしむ。)」(延長六年十二月条)とあるのが、まさにこの屏風制作を指した記事と見られます。その草稿とおぼしき「屏風土代」は、道風真筆の書作品の名品というばかりではなく、大江朝綱の漢詩を十一首まとめて見ることができる、文学的にもまことに貴重な資料なのです。

      
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                                      八重桜 24.4.15 東京都清瀬市

 朝綱の大江氏は古代からの名門で、優れた学者・歌人を排出し、学問や文筆で長い世に渡って朝廷に重く用いられました。一族には『古今和歌集』や漢詩集に名を見る大江千里を始め、大江匡衡、大江嘉言など三十六歌仙の人々、また和泉式部(大江雅致女)や赤染衛門(大江匡衡妻)といった平安女流文学の花形もこの一門に連なります。朝綱の祖父音人(おとんど)を尊崇して江相公(ごうしょうこう)と呼んだのに対して、やはり際立った学才で仰がれた朝綱は後江相公(のちのごうしょうこう)と呼び習わされます。

      
0421鬱金桜6462.jpg                                       鬱金桜 24.4.21 東京都清瀬市






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