第6回 河陽:花の溢れる地 詩人天子嵯峨天皇
第6回【目次】
* 漢詩
* みやとひたち
河津桜 23.2.3 東京都清瀬市
三春二月河陽懸
河陽從來富於花
花落能紅復能白
山嵐頻下萬條斜
「河陽花」嵯峨天皇『文化秀麗集』
三春 二月 河陽県(かやうけん)
河陽 従来 花に富む
花落つること能(よ)く紅(くれなゐ)に復(ま)た能く白し
山嵐(さんらん) 頻りに下りて 万条斜めなり
三春:春の三ヶ月。一月、二月、三月。
河陽県(カヨウケン):もとは中国の地名。現在の河南省孟県付近。
嵯峨帝のこの詩では山城国大山崎(現京都府)を詠むか。
山嵐:山を吹き下りてくる風。
万条:花の木の数多の枝々。
春の二月の河陽県(大山崎)、
河陽はもともと花に富む。
花散って赤い花びら白い花びら入り混じり、
山の風が頻りに吹き下ろしては、花の枝々は斜めに身を傾ける。
白梅 23.1.23 東京都清瀬市
詩は勅撰漢詩集『文華秀麗集』(弘仁9年 818)に見える七言古詩。嵯峨天皇の御詠です。
中国の河陽というと、晋の時代、詩人の潘岳(はんがく:248〜300)が知事となった時、町中に桃の木を植えたという伝説があり、河陽の地は花に溢れているというイメージがありました。この詩もそれに基づいて詠まれたものですが、土地はもちろん中国などではなく身辺が詠まれたはずです。
梅 22.2.4 東京都清瀬市
京都府乙訓郡の大山崎町(おおやまざきちょう)、旧山城国乙訓郡のこの町が、詩の「河陽」であろうと考えられています。この地は河の南にあるということで「河陽(かや、かやう)」の別名で呼ばれて来ました。弘仁2年(811)には嵯峨帝が山崎河陽離宮(別荘)に行幸された記録があります。また翌弘仁3年(812)からしばらくの間、嵯峨帝は毎年二月には交野(かたの:現大阪府)に行幸され、御狩をなさいました。大阪に接する大山崎の地は、交野の往復に容易に立ち寄ることが出来た場所です。
三春二月、陰暦二月は現在のカレンダーに重ねれば三月の始めから四月の始めに渡る時期です。「河陽」とあるだけで、詩には春の花が咲き満ちて、山崎の町中が花で溢れるようなイメージが浮かびます。それを背景に、空に舞う赤い花びら、白い花びらと、春の風に撓(たわ)むあまたの花枝が詠まれているのです。花々と明るい情景です。「河陽」の地の故事に倣っているとすれば、花はここでは桃の花かも知れません。
梅 22.2.4 東京都清瀬市
作者は嵯峨天皇( 786〜842)、名は加美能(神野 かみの)。桓武天皇の第二皇子。母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ)です。
平安京遷都(794年)は桓武天皇の一大事業でありました。践祚(せんそ 806年)した第一皇子平城天皇は病身で、三年で弟の嵯峨帝に譲位しましたが(809年)、その後、兄上皇は寵姫藤原薬子らにそそのかされて復位を試み、再び奈良を本拠として、いわゆる「薬子の変」(810年)が起きます。嵯峨天皇は即位して間もなくこの身内の争乱を鎮圧しなければなりませんでした。
コサギ 23.1.22 東京都清瀬市
鴨長明の『方丈記』に、「(京都は)嵯峨の天皇(みかど)の御時、都と定まりにける」という記述が見えます。日本史上比較的長い時代であった平安時代のはじまりを、私たちは「鳴くよ(7・9・4)うぐいす平安京」の語呂合わせで、桓武天皇の平安京遷都の年号で覚えたものでしたが、鎌倉時代において、実際京に住む人の意識としては、京都の始まりは嵯峨天皇からであったというのは興味深いことです。実質的に京を都にして、長い平安時代の礎を固めたのが嵯峨天皇であったということを、京の町はずっと記憶していたということなのでしょうか。
飛ぶ川鵜 23.1.31 東京都清瀬市
嵯峨天皇、書道の愛好者には三筆の一人として能書が知られた御名ですが、この人こそ平安初期の文壇の精力的なオーガナイザーでした。豪腕の政治家であり、時代を代表する文人であり、空海や最澄、魅力的な人々との交友もあった、厚みのある為人(ひととなり)を、詩とともにこのあと何回かに分けて、御紹介する予定です。
嵯峨天皇宸翰「光定戒牒」
"江戸ジダイ ノ ネコ..."
ひたちゃん、本違ってるよ
漢詩読むのでしょ
" 手伝ッテアゲヨウカ?"
* 漢詩
* みやとひたち
河津桜 23.2.3 東京都清瀬市
三春二月河陽懸
河陽從來富於花
花落能紅復能白
山嵐頻下萬條斜
「河陽花」嵯峨天皇『文化秀麗集』
三春 二月 河陽県(かやうけん)
河陽 従来 花に富む
花落つること能(よ)く紅(くれなゐ)に復(ま)た能く白し
山嵐(さんらん) 頻りに下りて 万条斜めなり
三春:春の三ヶ月。一月、二月、三月。
河陽県(カヨウケン):もとは中国の地名。現在の河南省孟県付近。
嵯峨帝のこの詩では山城国大山崎(現京都府)を詠むか。
山嵐:山を吹き下りてくる風。
万条:花の木の数多の枝々。
春の二月の河陽県(大山崎)、
河陽はもともと花に富む。
花散って赤い花びら白い花びら入り混じり、
山の風が頻りに吹き下ろしては、花の枝々は斜めに身を傾ける。
白梅 23.1.23 東京都清瀬市
詩は勅撰漢詩集『文華秀麗集』(弘仁9年 818)に見える七言古詩。嵯峨天皇の御詠です。
中国の河陽というと、晋の時代、詩人の潘岳(はんがく:248〜300)が知事となった時、町中に桃の木を植えたという伝説があり、河陽の地は花に溢れているというイメージがありました。この詩もそれに基づいて詠まれたものですが、土地はもちろん中国などではなく身辺が詠まれたはずです。
梅 22.2.4 東京都清瀬市
京都府乙訓郡の大山崎町(おおやまざきちょう)、旧山城国乙訓郡のこの町が、詩の「河陽」であろうと考えられています。この地は河の南にあるということで「河陽(かや、かやう)」の別名で呼ばれて来ました。弘仁2年(811)には嵯峨帝が山崎河陽離宮(別荘)に行幸された記録があります。また翌弘仁3年(812)からしばらくの間、嵯峨帝は毎年二月には交野(かたの:現大阪府)に行幸され、御狩をなさいました。大阪に接する大山崎の地は、交野の往復に容易に立ち寄ることが出来た場所です。
三春二月、陰暦二月は現在のカレンダーに重ねれば三月の始めから四月の始めに渡る時期です。「河陽」とあるだけで、詩には春の花が咲き満ちて、山崎の町中が花で溢れるようなイメージが浮かびます。それを背景に、空に舞う赤い花びら、白い花びらと、春の風に撓(たわ)むあまたの花枝が詠まれているのです。花々と明るい情景です。「河陽」の地の故事に倣っているとすれば、花はここでは桃の花かも知れません。
梅 22.2.4 東京都清瀬市
作者は嵯峨天皇( 786〜842)、名は加美能(神野 かみの)。桓武天皇の第二皇子。母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ)です。
平安京遷都(794年)は桓武天皇の一大事業でありました。践祚(せんそ 806年)した第一皇子平城天皇は病身で、三年で弟の嵯峨帝に譲位しましたが(809年)、その後、兄上皇は寵姫藤原薬子らにそそのかされて復位を試み、再び奈良を本拠として、いわゆる「薬子の変」(810年)が起きます。嵯峨天皇は即位して間もなくこの身内の争乱を鎮圧しなければなりませんでした。
コサギ 23.1.22 東京都清瀬市
鴨長明の『方丈記』に、「(京都は)嵯峨の天皇(みかど)の御時、都と定まりにける」という記述が見えます。日本史上比較的長い時代であった平安時代のはじまりを、私たちは「鳴くよ(7・9・4)うぐいす平安京」の語呂合わせで、桓武天皇の平安京遷都の年号で覚えたものでしたが、鎌倉時代において、実際京に住む人の意識としては、京都の始まりは嵯峨天皇からであったというのは興味深いことです。実質的に京を都にして、長い平安時代の礎を固めたのが嵯峨天皇であったということを、京の町はずっと記憶していたということなのでしょうか。
飛ぶ川鵜 23.1.31 東京都清瀬市
嵯峨天皇、書道の愛好者には三筆の一人として能書が知られた御名ですが、この人こそ平安初期の文壇の精力的なオーガナイザーでした。豪腕の政治家であり、時代を代表する文人であり、空海や最澄、魅力的な人々との交友もあった、厚みのある為人(ひととなり)を、詩とともにこのあと何回かに分けて、御紹介する予定です。
嵯峨天皇宸翰「光定戒牒」
"江戸ジダイ ノ ネコ..."
ひたちゃん、本違ってるよ
漢詩読むのでしょ
" 手伝ッテアゲヨウカ?"