2011年4月21日

第16回 花前有感:漢詩が日本のものになった時 島田忠臣1

第16回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち




      
      
422八重桜.jpg                                     八重桜 23.4.22  埼玉県所沢市

    年年花發年年惜
    花是如新人不新

      年年花発(ひら)き 年年惜しむ
      花は是れ新(あら)たしきが如きも 人は新たしからず

    4222八重桜.jpg                        八重桜 23.4.22  埼玉県所沢市

  詩は島田忠臣(しまだのただおみ 828〜892頃)の七言絶句「花前有感[花前 感(おも)ひ有り]」(『田氏家集』所収)から、その後半二句です。文例のページに全文を挙げました。
  

  年ごとに花は咲き 年ごとに人は花を惜しむ
  花はいつも新しいもののようだが 花見る人は年ごとに新しくはないのだ


  春ごとに新しく咲く花は再生を繰り返す永遠の存在に見え、その前で時とともに老い、やがて死に向かう人の命。無限の花と有限の人間とを対比してはかなさを嘆くのは、誰にも共感できる感慨です。

  唐の詩人劉庭芝(りゅうていし 651〜679)が詩「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代りて)」に「年年歳歳花相似(年年歳歳花相ひ似たり)歳歳年年人不同(歳歳年年人同じからず)」と詠んでから、この感慨は我が国でもよく詩のテーマになるようになりました。

    15八重桜4156.jpg                        八重桜 23.4.15 埼玉県所沢市

  島田忠臣は平安中期を代表する詩人です。32歳の時に清和天皇に360首の漢詩を献上したこと、卑官(低い身分)でありながら勅命を戴いて渤海国の使者の応接に当たり、達者に詩の応酬を行ったことなど、詩才を窺わせる逸話は数々あります。作詩に用いた唐風の名は田達音(でんたつおん)。生涯の詩213首を収めた『田氏家集』が残っています。

   16八重桜416.jpg                            23.4.16 埼玉県所沢市


  日本の漢詩の始まりは、宮廷の儀式や公的な遊宴を創作の場にしていました。忠臣も宮廷詩人ではありましたが、それまでとは異なって、より私的な場面で、さまざまな題材について、個人の心情を歌う詩を数多く詠みました。これは忠臣個人の作詩の特徴であるとともに、我が国の漢詩の成熟を反映する事象でありましょう。日本の漢詩はこの時期に到って、隋唐の詩を詳しく学び巧妙に模倣する営みすなわち学問教養の領域から一歩抜け出して、既成の類型に拘らずに歌いたい題材を、自分の心を、個人が自由に詠むことのできる生きた道具になって参ります。

 言い換えれば、日本人が私的な感情を活発に漢詩に託せるようになるのは平安時代の中期、この島田忠臣頃からのことだったのです。忠臣の「花前有感」は、唐詩「代悲白頭翁」詩の模倣のように見えて、平安初期の熱心な学習時代の漢詩とは趣が異なります。素材や形式以上に情感を共有しているからです。

  劉庭芝の叙情性が日本人の本来の趣味に合っていたので、島田忠臣以下平安貴族たちは、盛んにこの情感をなぞるような詩を詠みました。和歌の技法でいうところの本歌取りです。本歌取りは形だけを借りても歌になりません。

  日本人の愛する桜の詩を例に見ても、この流れを明らかに辿ることが出来ます。

    
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                           23.4.14 埼玉県所沢市

  中国に桜花を詠む詩がなかったことは以前にお話ししたとおりです(連載第13回)。手本を中国詩に求めて初めて編んだ『懐風藻』(天平勝宝3年:751)でしたが、桜を愛する日本人はこの時にすでに隋唐の詩にはなかった桜の姿を二首の詩に加えていました。しかし、それは春の詩の点景に桜が加わっていたというほどです。

     松烟双吐翠
     桜柳分含新

       松と烟(かすみ)と双つながら翠(みどり)を吐き
       桜と柳と分きて新(わか)きを含(ふふ)めり
 
  これは長屋王が詠んだ詩(「初春於作宝楼置酒」『懐風藻』所収 文例に全部を挙げました)です。薄くれないの桜は緑の柳との取り合わせでほんのりとした日本人好みのパステルカラーの情景ですが、このように桜を詠む方法は中国の桃李の詠み方に倣ったものというほかありません。この時には、桜花という素材を外国製の詩に敢えて取り込んだことに意義があったのです。

  その後も、春の景色を彩る美しい花として詩には詠まれていますが、和歌があれほど個人の感情を移入してさまざまに桜への愛を歌ったのに較べれば、それに通じるような桜の詩は久しく詠まれることがありませんでした。

  第13回に御紹介した平城天皇の「桜花を賦す」(長屋王の詩から約半世紀後の作品)は、ついに桜花そのものが漢詩の主題になったことが、王朝時代の和歌にも先駆けるものだったところに平安の和様の行く先を暗示して画期的な意味がありました。しかしまだ感情の発露という点では薄く、詠み方にはなお漢詩の桃李を借りた跡があきらかです。(次回に続く)

    八重桜422.jpg                       八重桜 23.4.24 東京都清瀬市

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