2011年8月26日

第29回 夏日睡起:虫の音の涼


第29回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち



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     獨臥風牀睡味長
     醒來殘日下西墻
     門前時有賣蟲過
     一擔秋聲報晩涼

       独り風牀(ふうさう)に臥すれば睡味(すいみ)長く
       醒め来たれば残日(ざんじつ)西墻(せいしやう)を下る
       門前 時に虫を売り過ぐる有り
       一担(いつたん)の秋声 晩涼(ばんりやう)を報ず

    
0826蝉2888.jpg                                           23.8.26 東京都清瀬市

  詩は館柳湾(たち りゅうわん 1762〜1844)の七言絶句「夏日睡起(かじつねむりよりおく)」です。

  夏の日、午睡から醒めての感興を詠んだ詩です。

  風牀(ふうしょう)の「牀」は中国の詩では寝台を言うことが多いようですが、ここでは寝床。「風牀」はそこに風が通っていることを加えた言葉で、季節を思えば爽快で心地よい昼寝の場所と言えましょう。

  睡味が「長く」とある「長」は「善」に同じ。「よい」という意味です。うとうとした昼寝の快味を表します。
  目が醒めると夕陽は西側の垣根に落ちています。詩人はやや寝過ごしたと感じたのかも知れません、もう日の暮れです。
  たまたま門前を虫を売って通る者がいます。虫売りは肩に担いだ屋台にたくさんの虫籠を積み、スズムシやカンタン、クツワムシなどを売り歩きます。
  その荷から溢(こぼ)れる虫の音は秋の声をして、夕暮れの涼しさを告げてゆきます。

   
0811コサギ1647.jpg                                 コサギの毛繕い 23.8.25 東京都清瀬市

  心地よい寝覚めに戸外を行く虫売りのゆるい売り声、荷から溢れ出る涼しい虫の声が臨場感をもって重なって、晩夏の夕暮れの風情がサラリと伝えられます。今日の私たちから見れば何ともゆかしい江戸情緒です。明治の文豪永井荷風は柳湾の詩を評して「江戸名所の絵本をひらき見るの思あり」と述べて高く評価しました(『葷斎漫筆』永井荷風)。この詩などもまさにその典型と言えましょう。

    
0716キキョウ8584.jpg                                           23.8.25 東京都清瀬市

  虫売りの起源を改めて明らかにしたのは小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン 1850〜1904 )であると言われます。

  明治23年(1890)にアメリカの出版社の通信員として来日したハーンは、虫の音を楽しむという日本の習慣にまず驚き、さらには虫売りという仕事があることに驚嘆しました。そして辿ったところ、寛政年間(1789〜1801)、神田の煮売り屋(おでんのような煮物を商う)を生業(なりわい)とする忠蔵という人物が始まりであると突きとめたということです。

  この商売は大当たりで虫売り商人は急増しました。そのため、天保の改革(1841〜1843)で規制緩和されるまでのおよそ40年間、虫売りは36人と定数が定められていたのだそうです。

    
豊国 虫売り.jpg                                      豊国画 「虫売り」

  スズムシやカンタンなどの虫の音が売り物になるという世の中。庶民が風流を売り買いする江戸は、やはり余裕のある都会だったと言うべきでしょう。

  作者館柳湾(たち りゅうわん 1762〜1844)は煮売り屋忠蔵とほぼ同時代の人です。詩人にとって虫売りは、その前の世代は知らなかったモダンな風俗であったはずです。


  ところで、この詩がいつ作られたかによって詩中の虫売り像はいく分違って見えると思われます。

  柳湾は13歳(1775)から83歳(1884)で没するまでの間、主家に随いて飛騨高山に赴任していた39歳からの四年間(1801〜1805)のほかは、ずっと江戸に暮らしました。虫売りはこの早い時期に神田から始まり、流行って1840年頃には規制され、天保の改革のおよそ1881年頃に制が解かれます。柳湾の没年がまさに天保の改革の時期(1844)ですから、虫売りの人数規制は柳湾のぎりぎり最晩年には解けているのです。

  この詩に柳湾が聞いていた虫売りは、詩人の最晩年でなければ36人に制限されていた時期の一人であったかもしれません。あるいは、この詩が八十翁の夏であったとすると、夕暮れまでうとうとしていたという昼寝の意味も若い人の昼寝とは違う趣になりましょう。そこに聞こえてくる虫売りは、規制が解けて盛んになった、当節流行の商売であったと窺えます。ただし、晩年の自宅があったのは目白台ですから江戸とはいえ草深い田舎。虫を売りに歩くかなという疑問はあるものの、風流も流行も問答無用の場合があります。

  詩の制作年を調べればあっけなく分かることとは言いながら(実際調べても発表年が制作時期と隔たっていることも多いので確定できないことは多いのですが)、あれこれ想像も楽しく、詩歌にもさまざまな歴史散策の入り口があります。

    
0823楓2792.jpg                                           23.8.23 東京都清瀬市

  館柳湾、名は機、字(あざな)は枢卿、通称は雄次郎。越後新潟の人。号の柳湾は、柳枝が靡く大河の河口である新潟の風景にちなむもの。この国出身の人によく聞く色白の大飯食らい(一日一升)であったと言います。この生活を続けるためには勤勉であらねばなりません。本姓小山氏は廻船問屋。養子に入って館氏となりました。13歳で江戸に出て亀田鵬斎に入門。幕臣小出氏に仕え、義に厚く温厚篤実な気性で周囲の人望も高く、恵まれた役人生活を全うしたと伝わります。

  宋詩に倣う当時の流行をよそに中晩唐の詩の高雅を好み、この「夏日睡起」詩にも現れている通り、平易な言葉、明澄な風韻がその詩風と言えます。

    
0814萩2002.jpg                                           23.8.14 東京都清瀬市

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