2012年3月23日

第55回 春遊:東風一路繍鞋軽し


第55回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち



      
0321河津桜6934.jpg                                      河津桜 24.3.21 東京都清瀬市

     相約春郊歩釅晴
     東風一路繍鞋軽
     綿蛮百囀知何處
     翠柳烟深不認鶯     

      相(あい)約して 春郊(しゅんこう) 釅晴(げんせい)に歩む
      東風一路 繍鞋(しゅうあい)軽(かろ)し
      綿蛮(めんばん)百囀(ひゃくてん) 知んぬ 何(いづ)れの処なるか
      翠柳(すいりゅう)烟(けむり)深くして 鶯を認めず

     ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い
       歴史的仮名遣い表記は漢詩(文例)のページで御覧下さい。

      
0321河津桜6949.jpg                                      河津桜 24.3.21 東京都清瀬市


  詩は以前にも御紹介したことがある江戸化政期の女流 江馬細香(えま さいこう:1787〜1861)の七言絶句「春遊(しゅんゆう)」です。

  好い日のひととき、誰か親しい人と打ち合わせして相集い、「春郊」すなわち街を離れて春の野を歩く楽しさを詠んだ詩です。

     
0321梅6725.jpg                                          24.3.21 東京都清瀬市

  「釅晴(げんせい)」という言葉は管見ではほとんど見ない言葉です。そもそも「釅(げん)」の字は、優れているけれど小さい辞書である「新字源」などには載っていません。この部首である「酉」は『説文解字』に拠れば「就(成熟)」の意味であるといいます。これを部首とする文字はそういったグループであるようです。詩の注釈書には「釅」を「濃い」という意味に取るのを見たことがあります。「釅(こ)い晴」とは、春の陽の明るい、芳醇な酒のようにどこか贅沢な感じによく晴れた空を想像すればよいのでしょうか。細香の師である頼山陽がこの詩に対して「手骨(手法=技術・骨法=構成、趣向)清新なり」と評しているのは、こうした言葉の選び方にも及ぶ評価かもしれません。

     
0321梅6877.jpg                                          24.3.21 東京都清瀬市

  その空の下を、約束していた人との散歩です。「東風」はもちろん春風のこと。「東」が「春」を意味するのは以前御紹介した通り、中国の五行思想からの慣用です。和文でも春風を意味する「こち」という言葉にこの「東風」という表記を当てます。詩人の辿る野中の一本の路を、春の風も吹き過ぎて行きます。暖かな大気、「釅晴」の空、心地よくゆるく吹く風。詩人の足取りも軽くなります。

  「繍鞋」というのは刺繍をほどこした「鞋(はきもの)」のこと。漢詩なので、中国の布製の婦人履を言う言葉で表現されていますが、もちろん実際にそういった特別なものを履いているわけではありません。詩の言葉です。春の野を親しい人と行く楽しさを、履き物が軽いという修辞で表しているのです。

     
0322菫7429.jpg                                         葵菫 24.3.22 東京都清瀬市


  「綿蛮(めんばん)」は鶯のさかんに囀(さえず)る声の形容で、「綿蛮たる黄鳥(=ウグイスのこと)」(『詩経』)などと使われます。
  「烟(=煙 けむり)」は大気に漂う靄(もや)のこと。春の霞や秋の霧を「煙」という言葉で表します。ここではもちろん春霞。芽吹いたばかりのみずみずしい柳の翠(みどり)を溶かして、あたりをパステルグリーンにぼかしています。ウグイスはそこに身をひそめているのでしょうか。


     約束しあって春の野を よく晴れた陽光のもと 歩む
     春風の吹き過ぎる一筋の道 私の足取りも軽い
     鶯のさかんに囀(さえず)る声が聴こえるのは 一体どこから
     翠(みどり)の柳は春の霞も深く 鶯の姿は見えない


  この詩の末句は細香が始め「垂柳緑深(垂柳 緑深くして)」と作ったのを、師の頼山陽の添削で「翠柳烟深」に改まりました。詩の言葉にはもちろんそれぞれの趣というものがあり、単純に優劣を問えるものではありますまいが、ここの場合に限って見れば、一定の言語量に盛り込まれる内容の豊かさ、選ばれた言葉の彩りや陰影など、客観的に比較できる様々な点において、子弟の力量の差は明らかです。山陽の批正に感動を覚え、やはりもの習いはするものだと思ったことでした。

     
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                                          24.3.16 東京都清瀬市


  この度の詩にも登場したウグイスは用心深い野鳥です。特徴のある歌声は耳にすればすぐにわかりますが、そう思って姿を探してもなかなか見つかりません。薮の中にいて、移動する時も心して外に姿を晒さないようにしているようです。昔の人の詩にも同じように「姿の見えない鶯」が歌われているのはこの詩に限ったことではありません。まことにこの鳥の習性なのだと面白く思われます。

  また、なかなか姿を現さないウグイスを陽気なメジロと取り違える場合も多いと聞きます。今の季節も「梅にウグイス」ならぬ「梅にメジロ」で、楽しそうに花に顔を突っ込んでいるのをよく見かけます。咲いたばかりの河津桜にもメジロはやって来ています。

    
0306メジロ4515.jpg                                      メジロ 24.3.16 東京都清瀬市

     
0321メジロ6946.jpg                                      メジロ 24.3.21 東京都清瀬市


  いわゆる鶯色をしているメジロは、しかしよく見ると目の周りにくっきりと白い輪があり、明らかに「目白」です。ウグイスは実際はくすんだ灰緑色で、メジロに較べれば地味な姿ですが、白い太い眉のあるすっきりした顔つきなど、なかなかハンサムだと思いますが、如何。

  お彼岸を過ぎて、遅れていた春が歩みを速めてきたようなこのごろです。

     
23211ウグイス9636.jpg                                     ウグイス 23.2.11 東京都清瀬市



     
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                                          24.3.22 東京都清瀬市

 

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