2011年1月28日

第5回 雪裡梅花:微(かす)かな春 神域に咲く

第5回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち





          
23鶯3.jpg                                        鶯 23.1.23 東京都清瀬市


     春光初動寒猶緊
     一株梅花雪裡開
     想像宮中嬋娟處
     暗知黄鳥稍相催
             「賦新年雪裡梅花」有智子内親王『経国集』

   春光初めて動くも 寒(かん)猶ほ緊(きび)し
   一株(いつしゆ)の梅花 雪裡(せつり)に開く
   想像す 宮中嬋娟(せんけん)たる処(ところ)
   暗に知る
     黄鳥(くわうてう)稍(やうや)く相(あ)ひ催(うなが)すを

     黄鳥:和名コウライウグイス

   春の光がやっと動き出したが、寒さはなお厳しく、
   ひと本の梅は雪の中に咲いている。
   宮中の華やかさを極めたあたりに思いを遣るに、
   ここにはそこはかとない鶯の声が聞こえ始める気配だ。

                   
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                                          23.1.12 東京都清瀬市
                                    
  詩は勅撰漢詩集『経国集』(天長4年 827)に見える七言絶句。古代の漢詩『懐風藻』(天平勝宝3年 751年頃)の詩が五言絶句からはじまったことを以前申しました。今回御紹介する詩は七言詩ですが、この時代になると珍しいというほどではありません。

  作者有智子内親王(うちこないしんのう 807〜847)は嵯峨天皇の第八皇女。我が国の文学史上最も古く最も優雅な女流漢詩人です。中国の詩史を繙(ひもと)いても女流詩人はごくわずかに限られます。まして、外国の文学である漢詩を作るということが、まださほど達者には行われなかった我が国の九世紀初頭に、女流の漢詩人は非常に珍しい存在と言えます。

          
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  この稀なる詩人の御名は、日本史の領域でむしろ知られているかもしれません。嵯峨天皇は都の安寧を祈る機関として弘仁元年(810)に賀茂斎院の制度を設けられました。有智子内親王はその初代の斎院なのです。卜定(ぼくじょう:占いによって決定)された時、御歳わずか四歳でした。

          
23鴨.jpg                                          23.1.23 東京都清瀬市


  斎院は都を守るため、朝廷に神の助けを得るために、ひたすら神に祈り仕える役目です。天皇一代に一人、選ばれた未婚の皇女が御代の安寧のためにこの任にあたり、精進潔斎して賀茂社に籠もりました。神の傍らにある清らかなお勤めではありますが、それは華やかな都の暮らしを離れ、世俗の楽しみを捨てた生活を強いられることでもあります。出家の暮らしに近く、あるいは名誉ある神への生け贄のような存在であったと言えるかも知れません。この興味深い閨秀詩人有智子内親王については、斎院ゆかりの葵祭(陰暦四月の賀茂神社の例祭、現在は五月十五日に開催)のころに改めて御紹介いたしましょう。

          
23ルリビタキf.jpg                                   ルリビタキ♀ 23.1.23 東京都清瀬市

  詩は早春、光が動き始めたが、「寒なほ緊(きび)し」いころ、白い梅が雪の裡に開くという情景です。始めの二句だけでも、季節の引き締まった寒さと、微(かす)かでも次第に光を増す早春の明るさがともに伝わり、澄んだ光の中に、雪の清浄に咲く梅の香りが、ふと芳るような気がして参ります。

          12寒梅2.jpg                                          23.1.12 東京都清瀬市

  後半二句は斎院ならではの感慨です。賀茂の森の奥深く、神に仕える暮らしをする作者は今ひと本の梅を眺め、鶯の気配を感じています。鶯は別名「春告げ鳥」。そこはかとない鶯の催しにかすかな春を感じる斎院の暮らしに対し、宮中ではいかが。同じ梅でも宮中の庭に咲き競う輝かしい花々を思い、人びとを思い、作者は目前のひと本の梅と自身の姿とをおそらく重ね見るのありましょう。

  後の平安貴族が偏愛し、人口に膾炙(かいしゃ)した春の歌に「鶯の 谷よりいづる声なくは 春来ることを 誰か知らまし」(『古今集』14)があります。詠んだ大江千里(おおえのちさと)は十世紀初めの人です。それを遡ること百年、この時の有智子内親王の身辺は、まさに鶯の声がなかったら春にも気づかないだろうと若い内親王には思われるほど、世間から隔絶した寂しい世界だったのではないでしょうか。

  しかし、詩の言葉は華やかな宮中の女性とひっそりと暮らす斎院自身とを対比すること以上を語りません。その節度にむしろ清冽な皇女の覚悟のようなものが想像され、詩は一層清々しく、気高い梅の香気にふさわしいものになって見えます。

         
22鷺.jpg                                        鷺 23.1.22 東京都清瀬市

  次回は、有智子内親王の父君、三筆の一人としても知られた嵯峨天皇の詩を御紹介しようと、ひたちは辞書を開いている模様です。

     
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