2011年8月19日

第28回 葵花向日:葵花(ひまわり)の一途


第28回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち




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     瀟洒精神冷淡姿
     黄冠攲側翠衣垂
     可憐向日心長在
     不到夕陽人不知

       瀟洒(せうしや)の精神 冷淡の姿(し)
       黄冠(くわうくわん)攲側(きそく)し 翠衣(すいい)垂る
       憐むべし 日に向かひて心長(つね)に在るも
       夕陽(せきやう)に到らざれば 人の知らざるを


   
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  詩は宇野南邨(うの なんそん 1813〜1866)の七言絶句「葵花(きか)」です。

     すっきりした精神(こころばえ) あっさりした姿
     黄色い冠はかたむき 翠の衣は垂れる
     気の毒なこと 心はいつも日に向かっているのに
     夕暮れにならないと 人にはわからないとは


  漢詩に詠まれる花の「葵」(葵花)にはタチアオイ(蜀葵)とヒマワリ(向日葵)との二種類があります。

  「葵花(きか)」と聞いてピンと来なくても、この詩の内容を見れば、この花がヒマワリのこととおよそ察しは付きます。そういえば、ヒマワリに「向日葵」という表記は今日でも珍しくありません。

    
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  北アメリカ原産のヒマワリがヨーロッパを経由して日本に渡ってきたのは江戸時代、17世紀のころです。観賞用ではなく漢方薬として、乾燥した種子を用いることがまず伝えられたのでした。生薬名を「向日葵子」(ひゅうがあおいし)と言います。それからこの詩の時期まで二百年、次第に花の姿そのものも目に親しくなってきていたのでしょう。


    
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  ヒマワリの名は、太陽の動きを追って首をめぐらすように花が向きを変えることから付いたと言われます。これはイタリア・スペインのラテン語系統、フランス語やロシア語の場合でも同じで、みな「太陽について廻る花」という命名になっています。日輪を一途に追う花と捉えられて、その花言葉も「あなたを見つめている」。

  「葵花」詩でも後半二句はこの花の精神性に心寄せる言葉になっています。一途な心は人に知られることがなく、夕暮れ、日輪が姿を消してしまうその時になって、はじめてそれと気づいてもらえるのだと。 

  作者宇野南邨(うの なんそん 1813〜1866)は美濃大垣の人。名は義以、字(あざな)は士方、通称忠三郎。大垣藩士でした。

    
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  北宋の詩に、「葵花」で忠節の臣(詩人自身)を暗示した詩があったことを思い出します。王安石(1021〜1086)らとの激しい論争が知られ、『資治通鑑』の編者として有名な司馬光(しばこう 1019〜1086)の詩「客中初夏」です。政情が変わり、それまで退けられていた作者が復権して都に召された時(1085)の作です(文例のページに全文を挙げてあります)。その後半二句に次のような対句がありました。

    更無柳絮因風起
    惟有葵花向日傾

   (更に柳絮(りうじよ)の風に因つて起こる無く
    惟だ葵花の日に向かつて傾く有るのみ)

大意は、「もう柳絮(柳の種子の表面に生じる白い綿毛のようなもの、風に乗って舞う)が風に吹かれて舞い上がることもなく、ただ葵花が太陽に向かって傾いているだけだ」。柳絮は姦臣たち、葵花は復帰した詩人自身を指すと解釈されます。

      
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                                    モミジアオイ 23.8.18 東京都清瀬市

  この「葵花」が「日に向かって傾く」とあると、一見ヒマワリの花の回転のことのようですが、中国にヒマワリが伝来したのも明代(1368〜1644)の末年ですから、明より古い時代の詩にヒマワリ(向日葵)を詠んだものはありません。これはタチアオイ(蜀葵)の花です。その上で、日に向かって傾くというのは君主の側に心を注ぎ、傾倒しているさまを表現したものと思われます。

  司馬光はその後の朱子学世界において非常に尊重された政治家でした。大垣藩士宇野南邨は、花は別のものでも「葵花」という名のもとに、先学の詩に倣って日輪(君主)への一途な心(忠誠心)を託したのかも知れません。

    
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