2011年2月12日

第7回 一懸千家無不花:学習の時代 嵯峨天皇の唐様

第7回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち






      
      
12メジロ梅桃色2.jpg                                      メジロ 23.2.12 東京都清瀬市


     河陽風土饒春色
     一懸千家無不花
     吹入江中如濯錦
     亂飛機上奪文紗
           「奉和河陽十詠」河陽花 藤冬嗣『文華秀麗集』

   河陽(かやう)の風土 春色(しゆんしよく)饒(ゆた)かに
   一県千家 花ならざるは無し
   江中(かうちゆう)に吹き入つては錦を濯(あら)ふが如く
   機上に乱れ飛んでは文紗(ぶんさ)を奪ふ
                   
     
5梅桃色.jpg                                           23.2.5 東京都清瀬市
                                    
  詩は勅撰漢詩集『文化秀麗集』(弘仁9年 818)に見える七言絶句。作者は藤原北家の当主藤原冬嗣(775〜826)。作者名を「藤冬嗣(とう・とうし)」とするのは、姓名を中国風に一字姓にして記したものです。このような名告り方は漢詩を作る際に行われる習慣ですが、『懐風藻』や『経国集』にはまだなく、この『文華秀麗集』から始まった方法です。

     
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  この詩は先週御紹介した嵯峨帝の御詠「河陽十詠」に唱和して詠まれた詩です。御詠と同じように河陽の地のイメージに乗せて、花に溢れる春の景観を詠んでいます。この「花」はもとは桃と思われますが、実景はさまざまであってよく、奈良から平安初期の文人に人気があった梅花は、ここに無理なく入ります。

  河陽は土地柄、春の景色が豊かであって、
  この町のいたるところ、どの家にも花が咲き満ちている。
  花びらが川に吹き入れば、流れる水は錦を晒すよう、
  機(はた)の上に乱れ飛んでは、絹の文様の美しさを奪うばかりだ。

  想は型どおり、言葉も特段目を引くものではありませんが、穏当な比喩は春にふさわしい鷹揚なたたずまいです。

      
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  第52代嵯峨天皇(在位809〜823)は、遷都間もない京都で、その後の長い平安時代の基礎となる政治機構を数々整えました。

  即位直後に「薬子の変」で同母兄である平城上皇を圧した嵯峨帝は、平安京の治安のため、警察機構の充実を図って検非違使(けびいし)を設置しました。有智子内親王を奉じて賀茂斎院の制度を置いたのも、直接は「薬子の変」のような乱れから京都を、皇統を、守ろうとする意図であったと言われます(第5回「雪裡梅花」)。また天皇に近侍して機密事項を扱う、いわば秘書課に相当する蔵人所(くろうどどころ)を設置したのも嵯峨帝です。後には高官の登竜門という以上には見えなくなりますが、この機関をわざわざ設けた嵯峨帝には、自分自身で政治を動かそうとする積極的な意欲があったことが明らかです。「薬子の変」のあった同じ810年に初代の蔵人頭(くろうどのとう)になったのがこの藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり 750〜817)の二人でした。

        
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  御所の慣行として、五位の位にならないと宮中清涼殿の殿上の間に昇ることができませんでした。しかし蔵人は天皇に近侍する役目です。もともと家柄の良い貴族に限られることもあって、例外的に六位で昇殿が許されました。機密を握り、政治の中枢に関わりますから有能でなくては務まらない仕事です。さらに、天皇の信任がなければ選ばれないポストです。結果として、蔵人に任命された人物は先々順当に出世を重ね、栄進しました。平安時代の文学作品には、宮廷貴族の花形として、また当時の宮廷女性の憧れの対象として、よく蔵人という役職が描かれます。そのような蔵人像のアウトラインをまず描いたのが藤原冬嗣であったと言えます。

      
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  中国の文治政治を理想と仰いだ嵯峨帝は、唐から帰った空海・最澄を始め、留学生の知識を重用し、中国に倣って文人を積極的に登用しました。その流れの下、律令の現実的な執行のために法務が改訂され、法律の解釈書「令義解(りょうぎのげ)」が編纂されたり、「続日本紀」に続く歴史書が編まれるなどの事業が盛んに進められました。また、『文華秀麗集』に見るような、帝王自ら作詩し、高官も詩を嗜(たしな)むという宮廷の空気も、嵯峨帝がリードした中国志向の一端と感じられます。

      
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  日本の文化史を通覧すると、平安時代は独特の和様が醸成された貴重な時期でした。しかし、まずその前に、高い文明に素朴に憧れ、真摯に中国を学ぶという時期があってはじめて文物の水準が上がり、独自の和様はその土台の上に確立したのでした。嵯峨帝の時代はまさにその土台を急速に固め高くした時期であったと言えそうです。いわゆる弘仁・貞観文化の時代です。嵯峨天皇は大君(おおきみ)として文化の後ろ盾になると言うより、自らが文化の創造者ともなって、世を強力に牽引する役割を果たしました。

     
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