第27回 夏晝(夏昼):昼下がり
第27回【目次】
* 漢詩
* みやとひたち
23.7.18 東京都清瀬市
貪睡鳧雛猶傍母
學飛燕子已離巢
湘簾半捲閑窗午
臥見微風度竹梢
睡(ねむ)りを貪る鳧雛(ふすう)は猶(な)ほ母に傍(そ)ひ
飛ぶを学びし燕子(えんし)は已(すで)に巣を離る
湘簾(しやうれん)半ば捲く閑窓(かんさう)の午(ひる)
臥して見る微風(びふう)の竹梢(ちくせう)を度(わた)るを
翡翠子 23.7.23 東京都清瀬市
詩は大窪詩佛(おおくぼ しふつ 1767〜1838)の七言絶句「夏晝(夏昼)」です。
睡りを貪る鳧(かも)の雛は まだ母鳥によりそったまま
飛び方を学んだ燕の子は もう巣立ちした
竹の簾(すだれ)を半ば捲き上げる 昼の窓辺
横になったまま 微(かす)かな風が竹の梢を吹き渡るのを見ている
翡翠子供 23.7.22 東京都清瀬市
春に孵った雛鳥はすくすくと育っていますが、その歩みはさまざまで、鴨(鳧)の子どもはまだ親に従い、燕の子は独立して空を翔る、そんな時期になりました。
おおむね一年周期の自然界の子育ては、新緑の頃から始まって早いものは済み、ゆっくりなものはまだ慈しみ深く続いているという、微妙な時期です。
翡翠父(右)子(左) 23.6.25 東京都清瀬市
詩の冒頭、こうした自然の生態の微妙さが、実にこまやかに夏の一時期を切り取って示しています。
23.8.1 山梨県山中湖畔
詩人は部屋に寝転がって、半ば捲き上げた簾越しに外を見ています。庭先には、竹の葉先をわずかに揺すって緩い風が流れてゆきます。のんびりした昼下がりの情景です。
23.8.1 山梨県山中湖畔
作者大窪詩佛は常陸の人、名は行(こう)、字(あざな)は天民、通称柳太郎。化政文化の花やかな頃、江戸の四詩家(他は市河寛斎、柏木如亭、菊池五山)に数えられた人気のある詩人でした。陸游などの宋詩の影響を強く受けたとされ、その詩はわかりやすさを旨とし、平易な言葉、淡泊な表現に努めたと言われます。わかりやすいこと、それは大衆的な人気を博すものが共通して備えている条件かもしれません。この詩の冒頭の気配にも通じますが、素直な写実的な詠風がこの人の特徴でした。
粋人蜀山人(しょくさんじん=大田 南畝 おおた なんぽ1749〜1823)がことのほか贔屓にして、「詩は詩佛 書は米庵に 狂歌俺 芸者小万に 料理八百善」と狂歌に詠み、詠まれたそれぞれがもてはやされました。
米庵はもちろん市河米庵(いちかわ べいあん1779〜1858)のこと。先に触れました江戸の四詩家の一人 市河寛斎はその父です。芸者小万とは当時「堀の小万(ほりのこまん)」で通っていた浅草山谷堀の芸者、本名はお松。美人で技芸に秀で、お酒に強く気が強く(「日本人名大辞典」講談社)、とくれば芸者中の芸者、およそ適性ぴったりの人物に見えますが、始めはさして人気もなかったのが、蜀山人のこの狂歌で評判になり、二代目三代目も出る売れっ子になったという人です。歌舞伎「五大力」のシリーズの登場人物名にもなっていますね。錦絵に盛んに書かれたのは、芝居の方の「小万」です。
芸者小万 豊国「御誂織薩摩新型」より
ついでながら、八百善は享保年間に創業した浅草山谷の料亭です。蜀山人が褒めた頃は四代目で、当主栗山善四郎は才人で多くの文人墨客と交際を持ちました。代々に幕府の引きもあり、将軍家のお成りを度々仰ぎ、幕末のペリー来航に際しては饗応料理を仰せつけられたこと(安政元年 1854)なども知られます。その時の費用は千両にも及んだと言います。明治に入ってからも、ここはしばしば政府による外国の要人接待の場に使われました。お商売は歴史とともに長く、料理屋八百善は実に2004年まで続きました。
23.8.6 東京都清瀬市
詩佛の文名も蜀山人の肩入れでますます上がりました。趣味が広く、交際が広かった蜀山人。その言葉は当時なりのマスコミに直接働きかける力があり、彼のネットワークは世間の流行に多大な影響力を持ちました。今も昔も、優秀な広告は大衆を動かします。マスコミを握る者が社会を動かすのです。
天性素直でものに拘らず、人付き合いのよい明るい性格であったという詩佛は、流行に乗ることに照れもなく、むしろそれを好むところもあったようです。門弟二百人を超えると言われた絶頂期の四十歳代、自邸を詩聖堂(しせいどう)と号したあたりは、調子に乗りすぎていたのでなければ、いささか神経を疑いますが、何か特別な理由があったのかもしれません(そもそも唐の王維を尊崇して呼ぶ「詩佛」と同じ名を号として名のるのも普通にはない作法でしょう)。生涯のかなりの時間を詩壇の寵児として華やかに生きて、分かりやすい詩を量産しました。
23.7.18 東京都清瀬市
画も能くした詩佛は墨竹図をもっとも得意としました。
竹の四葉が対生する構図は「詩佛の蜻蛉葉」と称讃されました。
* 漢詩
* みやとひたち
23.7.18 東京都清瀬市
貪睡鳧雛猶傍母
學飛燕子已離巢
湘簾半捲閑窗午
臥見微風度竹梢
睡(ねむ)りを貪る鳧雛(ふすう)は猶(な)ほ母に傍(そ)ひ
飛ぶを学びし燕子(えんし)は已(すで)に巣を離る
湘簾(しやうれん)半ば捲く閑窓(かんさう)の午(ひる)
臥して見る微風(びふう)の竹梢(ちくせう)を度(わた)るを
翡翠子 23.7.23 東京都清瀬市
詩は大窪詩佛(おおくぼ しふつ 1767〜1838)の七言絶句「夏晝(夏昼)」です。
睡りを貪る鳧(かも)の雛は まだ母鳥によりそったまま
飛び方を学んだ燕の子は もう巣立ちした
竹の簾(すだれ)を半ば捲き上げる 昼の窓辺
横になったまま 微(かす)かな風が竹の梢を吹き渡るのを見ている
翡翠子供 23.7.22 東京都清瀬市
春に孵った雛鳥はすくすくと育っていますが、その歩みはさまざまで、鴨(鳧)の子どもはまだ親に従い、燕の子は独立して空を翔る、そんな時期になりました。
おおむね一年周期の自然界の子育ては、新緑の頃から始まって早いものは済み、ゆっくりなものはまだ慈しみ深く続いているという、微妙な時期です。
翡翠父(右)子(左) 23.6.25 東京都清瀬市
詩の冒頭、こうした自然の生態の微妙さが、実にこまやかに夏の一時期を切り取って示しています。
23.8.1 山梨県山中湖畔
詩人は部屋に寝転がって、半ば捲き上げた簾越しに外を見ています。庭先には、竹の葉先をわずかに揺すって緩い風が流れてゆきます。のんびりした昼下がりの情景です。
23.8.1 山梨県山中湖畔
作者大窪詩佛は常陸の人、名は行(こう)、字(あざな)は天民、通称柳太郎。化政文化の花やかな頃、江戸の四詩家(他は市河寛斎、柏木如亭、菊池五山)に数えられた人気のある詩人でした。陸游などの宋詩の影響を強く受けたとされ、その詩はわかりやすさを旨とし、平易な言葉、淡泊な表現に努めたと言われます。わかりやすいこと、それは大衆的な人気を博すものが共通して備えている条件かもしれません。この詩の冒頭の気配にも通じますが、素直な写実的な詠風がこの人の特徴でした。
粋人蜀山人(しょくさんじん=大田 南畝 おおた なんぽ1749〜1823)がことのほか贔屓にして、「詩は詩佛 書は米庵に 狂歌俺 芸者小万に 料理八百善」と狂歌に詠み、詠まれたそれぞれがもてはやされました。
米庵はもちろん市河米庵(いちかわ べいあん1779〜1858)のこと。先に触れました江戸の四詩家の一人 市河寛斎はその父です。芸者小万とは当時「堀の小万(ほりのこまん)」で通っていた浅草山谷堀の芸者、本名はお松。美人で技芸に秀で、お酒に強く気が強く(「日本人名大辞典」講談社)、とくれば芸者中の芸者、およそ適性ぴったりの人物に見えますが、始めはさして人気もなかったのが、蜀山人のこの狂歌で評判になり、二代目三代目も出る売れっ子になったという人です。歌舞伎「五大力」のシリーズの登場人物名にもなっていますね。錦絵に盛んに書かれたのは、芝居の方の「小万」です。
芸者小万 豊国「御誂織薩摩新型」より
ついでながら、八百善は享保年間に創業した浅草山谷の料亭です。蜀山人が褒めた頃は四代目で、当主栗山善四郎は才人で多くの文人墨客と交際を持ちました。代々に幕府の引きもあり、将軍家のお成りを度々仰ぎ、幕末のペリー来航に際しては饗応料理を仰せつけられたこと(安政元年 1854)なども知られます。その時の費用は千両にも及んだと言います。明治に入ってからも、ここはしばしば政府による外国の要人接待の場に使われました。お商売は歴史とともに長く、料理屋八百善は実に2004年まで続きました。
23.8.6 東京都清瀬市
詩佛の文名も蜀山人の肩入れでますます上がりました。趣味が広く、交際が広かった蜀山人。その言葉は当時なりのマスコミに直接働きかける力があり、彼のネットワークは世間の流行に多大な影響力を持ちました。今も昔も、優秀な広告は大衆を動かします。マスコミを握る者が社会を動かすのです。
天性素直でものに拘らず、人付き合いのよい明るい性格であったという詩佛は、流行に乗ることに照れもなく、むしろそれを好むところもあったようです。門弟二百人を超えると言われた絶頂期の四十歳代、自邸を詩聖堂(しせいどう)と号したあたりは、調子に乗りすぎていたのでなければ、いささか神経を疑いますが、何か特別な理由があったのかもしれません(そもそも唐の王維を尊崇して呼ぶ「詩佛」と同じ名を号として名のるのも普通にはない作法でしょう)。生涯のかなりの時間を詩壇の寵児として華やかに生きて、分かりやすい詩を量産しました。
23.7.18 東京都清瀬市
画も能くした詩佛は墨竹図をもっとも得意としました。
竹の四葉が対生する構図は「詩佛の蜻蛉葉」と称讃されました。