2011年12月31日

第45回 東窻几を掃ひて:頼山陽の読書始め 『春秋』と『日本外史』

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第45回【目次】 (追加 2012/01/06)       


    * 漢詩
    * みやとひたち


      
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       故帋堆中歳過强
       猶餘筆削志偏長
       東窻掃几迎初日
       讀起春王正月章

     故帋(こし)堆中(たいちゅう)、歳(とし)强(きょう)を過ぐ。
     猶(な)ほ筆削(ひっさく)を余(あま)して志偏(ひとえ)に長し。
     東窓(とうそう)几(き)を掃(はら)つて初日を迎へ、
     読み起こす 春(はる)王(おう)正月(しょうがつ)の章(しょう)。

     ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い。
     
    
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  詩は江戸後期の頼山陽(1781〜1832)の七言絶句「元日」です。文例のページにやや詳しい語釈を載せています。

      
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  時は元旦。詩作の記録から、文政四年(1821)の元日と分かっています。場所は詩人の書斎です。詩人はこの日も堆(うずたか)く積もった書物に埋まって朝を迎えました。歳が「強(きょう)」を過ぎた、とある「強」とは、年齢の四十歳を意味します。ここで年齢に触れるのはこれが元旦だからです。今日の習慣とは違って、昔は誕生日に年を加えるのではなく、いつ生まれた人も皆一斉に暦の新年を迎える度に一歳ずつ年をとりました。そのために歳末の感慨は直截に加齢の嘆きにもつながり、新年に年齢が話題になるのも自然な流れでした。安永九年(1721)正月に生まれた頼山陽は、当時の数え方でこの年たしかに四十一歳です。

  この頃頼山陽が夢中で取り組んでいたのは後に彼の代表作になる『日本外史』の執筆でした。古典を調べては日々営々と書き続けて、なお筆を入れなければならない箇所はまだ山のようにあり、志すものの成るまでにはさらに長い時間を要すると詩人本人にも思えます。

  東側の窓はいち早く朝日を入れる窓です。『日本外史』全体の完成までははるか遠く、終わる時の見込みも立ちません。それがなくとも、学者の書斎の勉強に区切りは恒に付きません。いつもと変わりなく書物に埋まって暮れ、明けた朝ですが、その日 東の窓からさし入る朝日は貴い初日(はつひ)です。詩人は窓に面した机を恭しく掃い浄め、曙光を待ち受けて、心も新たに『春秋』の、章冒頭を一から読み起こします。

      
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  詩の末句に「春(はる)王(おう)正月の章」とあるのは、史書『春秋』を開き、実際の文章に触れてみてはじめて諒解する表現です。

  『春秋』は四書五経のうちの五経の一つとして知られます。魯の時代、孔子本人が書いたかまたは手を入れたと伝わる儒家の聖典の一書です。時間の推移に沿って記してゆくいわゆる編年体で人の生没や自然災害などの事実を淡々と記録した、詳しい年表のような書物です。紀元前八世紀から紀元前五世紀末までの二百四十年あまりを収めます。『春秋』という書名の由来には諸説あるようですが、少なくとも「年月」「流れる時間」を暗示するタイトルになっています。起きた出来事を連ねてゆくだけの簡潔な記述の中にも、人物や物事の扱い方に孔子の思想が反映しているとされて儒家に尊ばれてまいりました。もちろん漢学者頼山陽にとっても特別な書物であったことは間違いありません。

  編年体の『春秋』の記述は周の暦に従ってまず年を挙げ、時期(季節)・月・日の順に記録します。具体的な文章は、魯公の紀年(年)を記した後、「春、王、正月...」とはじめることが型になっています。「王」はその時の魯公であって、巻ごと章ごとにそれぞれの「王」です。もちろん人物を指しますが、現実としては「某王の治世」と、ここもむしろ時期を指定する働きになります。山陽は「元日」詩の末句に、その時の読書のままに、『春秋』の新年の典型的記述を一部そのまま採ったのです。この朝頼山陽が読んだのが『春秋』のどの部分であったか、「王」が誰なのかは、詩の表現からだけでは特定できません。しかし、机上を片付けて、ある巻の新年、改まった始まりの箇所を一から読み出そうとするところです。清々しい読書始め。書物は『春秋』。前途はるかな事業の途上、年頭の決意が滲む一節です。

      
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  頼山陽が心血を注いだ『日本外史』は我が国の武家の歴史を通覧する書物です。平安末期の源氏と平家の台頭から始まり、中世を通り江戸時代徳川10代将軍家治までの全二十二巻。文体は漢文体、記述形式は人物の伝記を連ねることで大きく歴史を語る、いわゆる列伝体で書かれています。文政10年(1827)に元老中首座の松平定信に献呈されました。この「元日」詩から六年後になります。

      
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  その二年後には出版され、以来我が国で最もよく読まれた歴史書と言えるでしょう。軍記作品などの物語を資料に加えるので文学に寄り、史実には必ずしも忠実ではない記述を含むことが発表当時から指摘されました。一方で、歴史から山陽の読み取った解釈による人物造型は説得力があり、生き生きとした人間の伝記を物語って読者を魅了しました。そうした人々の生き死にの物語を連ねるところに立ち上がって現れた山陽の歴史観・国家観が、幕末の尊皇攘夷運動および明治維新に多大な影響を及ぼしたことは知られる通りです。陣営を分けた伊藤博文や近藤勇も同じくこの愛読者でした。
  幕末の安政四年(1857)には『日本外史』は清(しん)国でも出版され、『春秋左史伝』『史記』を汲んだ漢文として、国内では変則が指弾され通俗漢文と批判もあった文体も本家では一定の評価を得ています。


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