2011年11月 6日

第38回 惜秋:惜しむは人の事なり 博識多才源順(みなもとのしたごう)


第38回【目次】         
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    * 漢詩




       
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     僕竊以、秋者天時也、惜者人事也。
     縱以崤函為固、難留蕭瑟於雲衢。
     縱命孟賁而追、何遮爽籟於風境。

      僕竊(ひそか)に以(おもんみ)るに、秋は天の時なり、
      惜しむは人の事なり。縱(たと)ひ崤函(こうかん)を以(もっ)て
      固(かため)と為(な)すとも、蕭瑟(しょうしつ)を雲衢(うんく)
      に留め難し。縱(たと)ひ孟賁(もうほん)をして追はしむとも、
      何ぞ爽籟(そうらい)を風境(ふうけい)に遮(さいぎ)らむ。

       ※( )内の表記は現代仮名遣い

  
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  今回は詩ではなく文です。源順(みなもとのしたごう 911〜983)の「九月尽日於仏性院惜秋詩(九月尽日 仏性院に於いて秋を惜しむ詩)の序」(『本朝文粋』巻第八)の結びの部分です。後半の対句は『和漢朗詠集』の秋の部にも採られています。

  古代日本の時間意識は暦に忠実に沿ったもので、移りゆく四季もきちんと暦の三箇月ずつに区分されていました。正月一日から始まる春を先頭に時はめぐり、陰暦七月から九月の三箇月が秋です。秋はものが実り、収穫があり、一年の結果が現れ、もろもろの終息を見る季節。陰暦九月の末日(尽日)はその秋の最終日です。このあとは草木も動物も休眠する季節に入ります。その侘びしさもあるのか、惜春が美しい夢が醒めるのを惜しむのに似ているのに対して、秋を送る人の心はもっと切実な寂しさをまとうようです。

    
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  文章はまず、「考えてみれば、めぐり来る秋(という時節)は天の摂理である、(従って、往くのも当然のそれを)惜しむのは天理とは無関係の人事(人の営み)である」という、いかにも源順らしい理智的な観察を述べます。

  それに続く後半二文は対句です。
  「崤函」とは陝西河内にある二つの関所、崤関(こうかん)と函谷関(かんこくかん)のこと。函谷関は交通の要衝にあり、南北から山脈が迫る峡谷の地形は破ることの難しい堅牢な関所でした。戦国時代、斉(せい)の孟嘗君が秦の昭襄王に追われてこの関を越えようとし、鶏の鳴き声を真似て夜明けを装うという奇策で、本当ならまだ開かない刻限に門を開けさせて脱出に成功したという故事は有名です。「小倉百人一首」に有名な清少納言の歌

  夜をこめて鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

は、漢籍に強かった清少納言がこの「鶏鳴」の故事をもとに詠んだ歌です。

    
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  手強い関所「崤函」に対句として対応する「孟賁」は大力の勇者です。『呂氏春秋』に「孟賁は斉人(せいのひと)、よく生きながら牛の角を抜く」とあります。

  「瑟」は二十五弦の弦楽器。「蕭瑟」はものさびしい瑟の音色になぞらえて秋風の音を、さらには秋風そのものを呼びます。「爽籟」も同様に「籟」は三穴の笛の名、また音響を言い(松風の音を「松籟」と呼ぶことは知られるとおりです)、「爽籟」はさわやぐ秋の風を指します。
  「雲衢」は雲の行き通う空のちまた。また「風境」は上空の風の通い路。この季節で言えば秋の風と冬の風が交替するところです。すなわち「難留蕭瑟於雲衢」と「何遮爽籟於風境」は同じ内容を同じ構造の別の表現で繰り返していることになります。

  いかに崤関や函谷関のような堅固な関であろうと、秋風の通行を遮ることはでき
  ない。たとえ孟賁のような大力の勇者に追わせたところで、どうしてさやさやと
  無心にさやぐ秋風を 上空に留めることができるだろう。

  廻る季節は天の定めた摂理。そう諒解していても往く秋を惜しむのを「人事」であるという意味は、人の理不尽なのか、あるいは人間の拙(つたな)さと言うべきなのでしょうか。

  同じ秋の暮れを、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は追いかけてでもゆきたいと、次のように和歌に詠んでいます。『古今和歌集』の秋の巻末の歌です。

 道知らば たづねもゆかむ もみぢ葉を幣(ぬさ)とたむけて秋は往(い)にけり
                           『古今和歌集』313

    
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  源順(みなもとのしたがふ 911〜983)は『竹取物語』や『宇津保物語』の作者ではないかと古くから疑せられてきました。漢籍を博覧し得、和歌や詩文にも長けた抜群の才能でなければ書けないそれらの作品を、当時書くことができた人物は限られていた筈だからです。しかし、それより確実なものとして源順の博学と才智を物語るのが、我が国最古の分類体辞典『和名類聚抄』です。

  中国の辞書『爾雅』の影響を受けていると言われる『和名類聚抄』は、今でいう国語辞典と漢和字典、さらに百科事典を兼ねたような書物です。原型と見られる十巻本の系統が扱うのは、天文、気象、神霊に始まり人間、人体、疾病、武芸、住居から乗り物、金銀宝石、衣服、食物、調度、日用品、数多くの動植物まで、二十四部百二十八門、約二千五百項に渡ります(二十巻本にはさらに芸術、法政、地誌などの内容が加わります)。漢語で項目が立ち、項目ごとに和字と漢字の読み方が示され、語釈が付いています。膨大な量であるばかりでなく、和漢双方に渡る博い学識が具わらなければできない仕事です。醍醐天皇皇女勤子内親王に献じるために、源順はたった一人で、しかもまだ二十代のわずか数年のうちにそれを書きおおせたのです(承平年間935頃成立か)。驚異的と言うほかありません。

    
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  勤子内親王(904〜938)は村上天皇の第四皇女。父帝は美貌で柔順な人柄を鍾愛し、手づから箏(そう)の琴を伝授したと記録にあります。絵画にも優れたと言い、芸術的才の豊かな方であったようです。歌合わせを主催した記録もあり、文学にも明るかったことが偲ばれます。若い源順が一人で実現した『和名類聚抄』の奇跡を解く鍵を、この姫宮への届かぬ思いであると見る向きがあります。そう思って見ると、七歳の年長。光源氏と義母藤壺の宮との年齢差が五歳。光源氏と六条御息所の差が七歳。年上の人に強く憧れる恋は、このように特異な情熱とともにあるのかもしれません。
  勤子内親王は降嫁して村上天皇の重臣である藤原師輔の室でしたが、天慶元年(938)十一月、三十四歳の若さで薨去しました。源順が青春を注ぎ込んだ辞書が献上されて、いくらも経たない頃でした。

   
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