2011年10月12日

第36回 秋雲篇:具品の秋 冥界に通う小野篁


第36回【目次】         
ひたち巻頭肖像.jpg


      

    * 漢詩
    * みやとひたち



          
0923雲6555.jpg                                          23.9.23 東京都清瀬市


     氣憀慄
     具品秋
     客在西
     歳欲遒

      気は憀慄(りょうりつ)
      具品(ぐひん)の秋
      客(たびびと)は西に在(あ)り
      歳(とし)遒(い)なんとす

      ※( )内の表記は現代仮名遣い


    
1011グミ9033.jpg                                          23.10.11 東京都清瀬市

  詩は平安前期、漢詩の最盛期に詩壇の花形であった小野篁(おののたかむら 802〜853)の「秋雲篇示同舎郎(しゅううんへん、どうしゃのろうにしめす)」の一部です。全体は七言の中に三言の句が四句混じった十八句からなる雑言体の詩です。その冒頭、三言の四句を挙げました。詩の全文は文例のページに掲載しています。

    

1011鷺9080.jpg
                                          23.10.11東京都清瀬市

  第一句「憀慄(りょうりつ)」は秋の空気の、ぞっとするようなある種凄みを感じさせる情感を言います。「憀」には「さわやか」の意味があり、「慄」は「戦慄」の「慄」でもあります。身近な唐詩などにもあまり見ない言葉ですが、晋の人潘岳(はんがく)の「秋興賦」にこの表現があります。「秋興賦」での用法を和語に解けば「かなしみいたむ」「いたみおもふ」とでもいう内容ですが、ただに悲痛な心象を言うのではなく、悲しいことが美しさに通じるような、いかにもこの季節らしい感傷的な情緒で用いられているようです。篁のこの「秋雲篇」はこのあと七言の十四句の中に数々の故事が盛り込まれております。中に潘岳の名も見えますから、この「憀慄」はその「秋興賦」を踏まえたものに間違いありません。秋のメランコリックな気分にひんやりした秋の空気が何かしら特別に悲しくそして鋭く魅力的に感じられる、それを言う言葉になっています。

    
1011鴨9094.jpg
                                          23.10.11東京都清瀬市

  ところで、現代の若い人の俗語に、よい意味に使う「ヤバい」という形容語があります。"大人"の皆さまはご存じでしょうか。もともとは「危ない」の意味の俗語であるヤバい。よい意味で用いられる時は「戦慄するばかりに感動的だ」とでもいう感情を担当しているようですが、誇張表現の常として見る見る使用領域を広げて、景色の美しさ、人柄の立派さや、食べ物が美味しいことなどにも広く使われています。「ものすごく(何かの意味で)よい」という、程度を表す形容語として成立しているのでしょう。この「憀慄」は、若者語で訳せばまさに「ヤバい」がふさわしいところです。「この赤ちゃんヤバい(ものすごく可愛い)」「秋刀魚の塩焼き、ヤバい(ものすごく美味しい)」などと使うよりはるかに語源に即した、芯の通った使い方です。

      
コニャみや0610.jpg                 "ヤバい"かな     みや 幼時


     戦慄するばかりの秋の気
     ものみなそなわる秋よ
     旅人は西方の旅路に在るまま
     この年も暮れようとする

  自然界の生り物は収穫期を迎えて、時はまさに実りの秋です。「具品の秋」はそこに留まらず、万物が生成し完成して、そなわるのが秋であるという見方です。

  第四句「歳(とし)遒(い)なんとす」は一年を単位とした時、秋までくればもう終わりに近づいてきたという感覚を述べます。これは「秋」の詩で、このあとに三箇月の「冬」がまだ控えております。今の時代にカレンダーに百日残してもう今年も終わりが近いなどと言えば奇異な意見にもなりましょう。しかし、詩の昔、古い時代には、秋のこんな時期にはもう一年の終わりがゆるやかに意識されはじめていたということなのでしょう。胸にそれを抱いて一日一日を送り、そのクライマックスに迎える大晦日だったのです。時間の扱いが現代は小刻みになりすぎ、物事が急になりすぎているのかもしれません。

  ものがみな満ちて具わる秋の日、故郷を離れて漂泊する人の心には、冷え行く外気も実りの美しさも、終わりに向かう暦の残りのことも、ひとしお深く沁むのでしょう。

    
1011柿9230.jpg
                                          23.10.11 東京都清瀬市

  博識の英才小野篁(おののたかむら 802〜853)は古代史に名高い遣隋使小野妹子(おののいもこ)の末裔です。小野氏は古い貴族の名門。三蹟の一人小野道風はこの孫にあたります。また「尊卑分脈」に、篁の子の良真の子に小野小町の名があり、謎の多い小町の出自説のひとつにも連なっています。

  「日本文徳天皇実録」の薨伝によれば、身の丈六尺二寸(1.8メートル以上)の威丈夫で、豪放な人柄でもあったようです。能吏であるとともに時代を代表する漢詩人でした。同じ薨伝は「天下無双」とその詩文の才を讃えています。唐の白楽天(白居易)がこの人に心を寄せ、会いたがったとまで伝わります。才能の自負に加え、名家の誇りに生来の多感な性格も相俟って、遠慮のない振る舞いも多かったようです。畏れを知らず、世俗に妥協しないありようは「野狂」の異名で知られます(「野」は小野氏の「野」)。遣唐副使に任命されながら渡航を拒否したこと(承和元年 838)、政道批判の詩「西道謡」を作ったことなどで嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐に流されたこともありました。その配流の途上に詠まれたのが「百人一首」などにも取られた「わたの原八十島掛けて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟」です。一年あまりで赦免されますが、配所の暮らしは厳しいものであったらしく、大男が短い間に見る影もなくやつれて帰京したのを、都の人々は驚きをもって迎えました。ただし、そのくらいのことで萎れるような人でもなく、その後も要職を歴任し、意気軒昂に過ごした模様。四十代半ばで参議に列し、出自にふさわしい栄進を続けましたが、金銭に淡泊で、知人に俸禄を分け与えるので暮らしは貧しかったと、先の薨伝は伝えています。



0925蜻蛉7179.jpg                                          23.9.25東京都清瀬市

  類い希なる才能を語る伝説が「江談抄」「俊頼口伝」「宇治拾遺物語」などの説話集に数々残っています。その異能の故か冥界との交流に触れる物語が多いこともこの人の特徴です。嵯峨あるいは東山にあった寺の井戸を通路に夜な夜な閻魔庁に通い、閻魔大王の裁判の補佐を務めていたという逸話は有名です。紫式部や西三条大臣藤原良相など、死後の地獄の沙汰に篁の取りなしを受けたという話が「今昔物語集」などに見えます。歌物語「篁物語」は篁を主人公に異母妹との悲恋を描きますが、これも途中で死者になる妹との幽明を隔てた恋を語ります。とかくに普通ではないのです。

  この少し後に登場する和歌の天才在原業平なども同様、非藤原氏の才能は、現世政治の世界で思うままの位置に就かないことで、別世界に特別の席を得ることになったのかもしれません。たまたまこの「秋雲篇」詩の最後でも篁本人が、「富貴(ふうき)は人間(じんかん)にして不義(ふぎ)の如し」、それは浮雲のようにはかないものと吐露し、伝説の白い雲に乗って理想郷に行った異界の人物を挙げて、詩人自身も雲に乗りたいと述べています。

    

1010空8833.jpg
                                           23.10.10 東京都清瀬市









同じカテゴリの記事一覧