2012年11月11日

第75回 君汲川流我拾薪:桂林荘の青春


第75回【目次】         
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    * 漢詩 桂林荘雑詠示諸生
    * 漢詩 晩秋舟行
    * みやとひたち 猫冬支度
    * みやとひたち 木枯らし猫
    * みやとひたち 立冬アオサギ

     
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   休道他郷多苦辛
   同袍友有自相親
   柴扉暁出霜如雪
   君汲川流我拾薪

  道(い)ふを休(や)めよ 他郷苦辛多しと
  同袍の友有り自(おのづか)ら相ひ親しむ
  柴扉(さいひ)暁(あかつき)に出づれば 霜雪のごとし
  君は川流(せんりゅう)を汲め 我は薪(たきぎ)を拾はん

        ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い
       歴史的仮名遣い表記は漢詩(文例)のページで御覧下さい。

    
    
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  詩は江戸時代末の儒学者にして偉大な教育者でもあった廣瀬淡窓(ひろせたんそう 1782〜1856)の七言絶句、 桂林荘雑詠示諸生[桂林荘(けいりんそう)雑詠(ざつえい)諸生に示す]」の一篇です。

    
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    志を立てて郷里を出て来た以上、他郷は労苦が多いなどとは言うまいぞ。
    志を同じくする友は大勢いて、
        不自由を忍びながら、一枚の着物を共有する親友もできるだろう。
    明け方、質素な柴の戸を開ければ、辺りは一面真っ白な霜だ。
    さあ、君は川の流れに水を汲みたまえ、僕は林に入って薪を拾ってこよう。


    
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  廣瀬淡窓(1782〜1856)は豊後国日田の人。通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。淡窓は号です。以前に御紹介したことがある廣瀬旭荘(1807〜1863)はこの末弟にあたります。

    
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  文化二年(1805)、淡窓二十三才の時、豊後国日田(現大分県日田市)の照雲山長福寺の学寮を借りて初めての塾を開きました。桂林荘です。全国から有為の若者がここに集い、寮で学生生活をともにしました。十二年後の文化十四年(1817)に塾を堀田村(現大分県日田市淡窓町)に移し、名を改めて咸宜園(かんぎえん)としました。「咸宜」とは「咸(みな)宜(よろ)し」。尋(と)め来る者は、身分、出身、年齢を問わず、広く入塾を許可したこの学舎の風を名乗るものです。

  詩はその咸宜園の前身であった桂林荘時代、従って淡窓自身もまだ若い二十代から三十代の時期に、若い学徒に向けて詠まれた作の一つです。

  「道(い)ふを休(や)めよ 他郷苦辛多しと」のはっきりしたメッセージはこの詩の主題を側面から明快に語って印象深い導入の一句になっています。

    
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  桂林荘には当時全国六十八カ国(地域)のうち実に六十六の地域から入塾者があったと言います。中には女性もいました。親元を離れ故郷を出て他国の寮に暮らすのは楽なことであるはずがありません。概(おおむ)ね物質的には乏しく不自由な毎日。第二句「袍」は綿入れの着物のことです。寒い時には寝る時に布団のようにくるまったりもします。「同袍の友」とは同じ一枚の着物を共有する友。親友の意味になりましょう。

   
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  第三句「柴扉」は柴の戸、簡略な出入り口をいうもので、建物がいたって簡素であることを示します。明け方、質素な学寮の扉を開ければ、辺り一面は白い霜。第四句に川流を汲み、薪を拾うのはもちろん炊事の支度です。勉強以前の身の回りのこと、食事の支度もすべて自分でまかなわなければなりません。若者の朝、息は白く、寒さに川に下りて水を汲む手、薪を拾う手も足も濡れて、冷えて赤くなっていることでしょう。しかし、ここには希望があります。

    
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  廣瀬淡窓は漢学者でしたが、咸宜園には外から教授を招いて数学や天文学、医学といった広い分野にわたる学問の場が設けられました。毎月試験を行いその成績を開示し、成績に応じた進級制度であったことなど、実力主義の分かりやすい教育方針を取っていたこともこの塾の特徴と言えそうです。

    
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  咸宜園は江戸時代の私塾の最大級の規模となり、淡窓の没後も受け継がれて、明治三十年(1897)まで存続しました。およそ八十年のその歴史に学んだ学生は約四千八百人と言い、門下からは高野長英や大村益次郎、清浦奎吾など、幕末から明治を築いた俊英を輩出しました。  

    
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