2011年5月12日

第19回 葵祭の頃:閨秀漢詩人 公主有智子

第19回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち




      
      
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     晴日暖風生麥氣
     綠陰幽草勝花時
    
       晴日(せいじつ)暖風(だんぷう)麦気(ばくき)を生じ
       緑陰幽草(いうそう)花時(くわじ)に勝る


    
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  詩は北宋の王安石(おう あんせき 1021〜1086)の七言絶句「初夏即事」の後半二句です。文例のページに絶句全文を挙げました。

  見わたせば、新緑もひと色ではなく、濃く、淡く、さまざまな緑が青い空にみずみずしく映えるこの頃です。北宋の詩人が、

     晴れた日の光と暖かい風の中に麦の香は立ち
     緑の木陰 人知れず繁る草むらは 花咲く時節にも勝っている

と歌ったのはもちろん宋の初夏に違いありませんが、日本の初夏もこの趣は似て、春の花の季節にはない清新な魅力があります。

    
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  この初夏五月の半ばに、京都では季節を彩る葵祭が行われます。古典作品で、ただ「祭」といえばこの葵祭を指すというほど都の人に親しまれた祭礼です。

    
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  葵祭とは通称で、賀茂神社[賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)]の例祭です。本来はこの祭の花形は宮中から賀茂神社に遣わされる盛装の使者(勅使)でした。賀茂社への畏敬の念と朝廷の権威とを負って、華麗な装いにも威儀を正した凛々しい勅使の姿を一目見ようと、見物の人混みで初夏の都は沸き立ちました。一千年頃の作品『枕草子』にも祭見物を楽しみにする記事が見えます。また、『源氏物語』では青年時代の光源氏がこの勅使を勤めています(「葵」巻)。物語のスーパー主人公として、勅使(「祭の使(まつりのつかひ)」)を勤めるというのは欠かせないエピソードなのです。正妻の葵の上と愛人六条御息所の一行とがこの見物の路上で遭遇し、従者同士が醜く争い、侮辱された六条御息所がこの後に生霊となって産褥の葵の上を憑り殺す、といった、長編五十四帖の中でも屈指の過激な展開は、この葵祭を背景に描かれました。

    
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  さて、今日葵祭の主役といえば、若く美しい女性が扮する斎王代(さいおうだい)という役割でしょう。斎王とは神に仕えて人と神の間に立つ人のことです。この祭礼の本来の主催者です。

  かつては伊勢大社と賀茂神社にそれぞれ宮中から未婚の皇族女子が神に仕える任を負って遣わされていました。伊勢の斎王を斎宮(さいぐう)、賀茂のを斎院と呼ぶのが習わしです。斎宮の制度は南北朝時代まで、斎院は鎌倉時代まで続いて途絶しました。現在は本物の斎王は賀茂にお勤めしていないので、斎王「代」というわけです。

  前置が長くなりました。お祭の時期に合わせて、というのもちょっと強引ですが、今回は我が国の漢詩の歴史において忘れることの出来ない女流詩人を御紹介いたします。それは斎王の制度と関係のあるお話なのです。

   
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  賀茂の斎王・斎院の始まりは、810年の藤原薬子の変が契機であったと伝わります(連載第五回 雪裡梅花)。

  嵯峨天皇は同母兄の平城上皇と争うに至って賀茂大神に祈願し、我が方に勝利有らしめば神に皇女を奉ると祈りました。そうしてこの争いを鎮圧できたので、約束通り内親王をひとり、神の御許に差し出した、というのが賀茂斎院の制度の始まりであると言います。

  斎王は神に嫁するように神事に奉仕する役目です。賑やかな都の暮らしを離れ、京の北辺、紫野の斎院御所の奥深くに住み、常に身を清め、身辺を清浄に保ってその御代と都の安寧を神に祈ります。世俗の楽しみを断ち、みだりに人に会うこともなく、とりわけ男性との交渉はあるはずもなく、任を下りた後も結婚することは考えられない立場でした。

  初代のその斎王(賀茂の斎院)となった方が、本場の中国も含めて、女流の漢詩人という歴史上極めて珍しい存在になる、嵯峨天皇の第八皇女宇智子(うちこ又は うちし)内親王(807〜847 生母は交野(かたの)女王)です。卜定(ぼくじょう:占いによって決定)された時御年わずか四歳でした。

   
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  『続日本後紀』は、「史記」「漢書」に通じ、漢詩文をよくしたと、宇智子内親王の聡明を伝えています。平安時代の才女といえば、先に挙げた『枕草子』の作者清少納言、『源氏物語』の紫式部が有名です。漢籍がもっぱら男性のもので、漢籍を扱える女性が稀だった時代に、この二人はいずれも中国古典に明るかったことが抜きん出た教養であると称讃されたのです。宇智子内親王はそれより150年も前の人であることを思うと、希有の才能が改めて知られます。

    
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  弘仁十四年(823)二月、斎院十七歳の春、嵯峨天皇は文人を伴って斎院御所に行幸し、花を眺めて詩の会を催しました。その時に、斎院の主人であった宇智子内親王も当時の名立たる文人諸氏に混じって詩会に加わりました。その時の作が「春日山荘、塘・光・行・蒼を勒す」。漢詩の作法に沿って塘・光・行・蒼を韻字に用いた、遺漏のない七言律詩です。(文例のページに全文を挙げてあります)。

  父嵯峨帝の来訪を喜び、感謝する言葉のちりばめられたこの詩の、対句の一つに次のような言葉があります。

    棲林孤鳥識春沢
    隠澗寒花見日光

     林に寂しく棲んでいる鳥は春の恵みをここに知り
     谷間に密やかに咲く花は暖かい日の光に浴した

  「春沢」「日光」は嵯峨帝の行幸を暗示します。そして「孤鳥」はひとり宮中を離れて山荘に住む皇女であり、「寒花」は春にも会わず光の当たらない場所にひっそりと咲く花のような、やはり皇女自身を重ねていると見られます。
  都の喧噪をよそに神域に籠もり、ひたすら神に仕える暮らしの皇女は、やはり寂しい毎日だったに違いありません。

  嵯峨帝はこの少女の詩の出来栄えに感嘆し、ただちに位階三品と封百戸を授けました。一廉の文人として篤く遇したのです。さらに、「書懐(こころをしるす)」として七言絶句を皇女に贈りました(「天皇書懐、賜公主」『続日本後紀』)。その内容とは

    忝なくも文章を以て邦国に著(あらは)る
    栄楽を将(もち)て煙霞(えんか)に負(そむ)く莫かれ
    即今 幽貞の意を抱き
    事無く終(つひ)に須(すべから)く歳華(さいくわ)を送るべし

  文学の才によって国に名を著(あらわ)したお前は、派手派手した幸せを求めて自然への親しみを捨ててはならない。今後ともにその静かで穏やかな心を持ち続けて、つつがなく日々を送りなさい。

  四歳で斎院として選ばれた時に、人並みの幸せを求めることはできないと、一生の運命は決まってしまいました。幼くして現世を離れ、皇女に生まれながら何の花やかな暮らしも知らずに孤独に生きる身の上を、親として哀れに思わない訳はありません。しかし嵯峨帝は十七才の詩に遇った時、この皇女がすでに人並みでない才に生きていることを知ったことでしょう。

    
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  宇智子内親王は二十六歳で病気を理由に退下するまで斎院を勤め、四十一年の生涯を、父帝の訓戒を守ってひっそりと過ごされました。現存する詩はわずか十首ですが、九世紀初めのこの時期に本格的な漢詩が、しかも女性の手で達者に作られていたことを証明する貴重な存在です。漢詩作者として中国風に呼ぶ御名を「公主(=内親王)宇智子」と申し上げます。

    
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