2011年3月 3日

第10回 天酔于花:菅原道真上巳の詩宴に詠む


第10回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち






      
     
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                                         23.3.5 東京都清瀬市

   春之暮月 月之三朝
   天酔于花 桃李盛也

   春の暮月(ぼぐえつ)、月の三朝(さんてう)、
   天花に酔へり、桃李(たうり)盛んなるなり。
           「花時天似酔序」冒頭  菅原道真『和漢朗詠集』39

     ※暮月:最後の月。陰暦三月は春の最終月。
     ※月之三朝:その月で三回目の朝、三日目を意味するところから、
           日付の三日の意に使う。

      
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                                        23.2.27 東京都清瀬市

    暮れゆく春の三月三日、
    天は花の色に映えて酔ったようにかすみ、
       桃や李の花が今を盛りと花開いている。

  詩は菅原道真。陰暦三月の上巳(じょうし)の節供に、宇多天皇の催した詩宴に詠んだ作の一部です(文例に全部を挙げてあります。同じ詩を、連載「みやと探す...」のシリーズでも一度御紹介しました〔第77回「花の時 天花に酔へり」〕)。

      
27枝垂れ梅up.jpg                                   枝垂れ梅 23.2.27 埼玉県所沢市

  「天花に酔へり」という詩句は、春の花の季節に忘れられない言葉です。陰暦三月は春の最後のひと月。すっかり行き渡った春の気に、地上の桃や李の花は咲き満ち、明るく盛んな勢いは天も酔うばかりです。

      
27枝垂れ梅up2.jpg                                        23.2.27 埼玉県所沢市


   ところで、現行暦の三月は陰暦よりおよそひと月あまり遅いので、私たちの日常感覚で思う「三月」と、古典の「三月」は同じではありません。季節の詩歌は その感覚を実感し、作者と心を共有できなければつまらないものです。古典の「三月」が今の四月過ぎであることを、是非イメージしながらお読みください。

      
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  陰暦三月の初めの巳(み)の日は大昔は祓えの日であったようです。よろず禍々(まがまが)しいものを避けるために、禊をして身を清める中国起源の習俗で、周代に遡るとも言いますが、始まりは定かではありません。

  この上巳の日に曲水の宴が張られるようになったのは、もともとが水辺に出掛けて身を清める日であったことと関係があるのかも知れません。

      
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  曲水の宴はゆるやかな水の流れのある庭園で、流れのほとりに参加者の席を設け、流れに盃を浮かべて、盃が廻って来るまでに題に適った詩を作る、という風雅の遊びです。盃が廻るまでに詩が作れなければ、罰として盃を干すというルールでした。

      
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                                        23.3.5 東京都清瀬市

  この宴の起源もはっきりしませんが、私たちが知る限りでも、中国の書聖王羲之(303〜 361年)の書いた行書の傑作「蘭亭序」が、曲水の詩宴の序文でした。


    是日也 天朗氣清 惠風和暢
          仰觀宇宙之大 俯察品類之盛

    是の日也(や)、天朗(ほがら)かに気清く、惠風(けいふう)
    和暢(わちよう)す。
    仰いでは宇宙の大なるを観(み)、俯(ふ)しては品類の盛んなるを察す。
                        「蘭亭序」より抜粋

  美しい庭園蘭亭にあって、春の日のうららかさを歌い出すこの一節は、気宇の大きな、まことに豊かな自然のスケールを感じさせます。

  菅原道真が宇多天皇の詩宴でこの「花時天似酔序」を詠んだ時も、脳裡には当然「蘭亭序」があったはずです。

      
5白梅枝.jpg                                        23.3.5 東京都清瀬市

   呪術的な趣を次第に薄くする一方で、詩宴などを催す風雅の遊びが習慣となってゆく上巳の宴について、我が国の最も古い曲水の宴の記録は「日本書紀」の顕宗天皇の時代(485年3月)にそれらしきものの記事が見えますが、詳細は分かりません。その後はぱったり見えず、ぽつぽつと記録に登場するのは7世紀以降。奈良時代には、そろそろ初めの巳の日といった日取りではなく、三月三日の日付に固定して催されるようになって来ました。平安時代になって、ことに嵯峨天皇(在位809〜823年)以降、行事として定着したように見受けられます。 この催しが漢詩を作る遊びであったことと、嵯峨天皇が詩文をよくする人であったこととはやはり関係があったのでしょう。

      
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