2012年6月22日

第66回 雨中閑話:和製漢文が綴る 富士山記(一)


第66回【目次】         
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    * 漢文

    * みやとひたち

    * みやとひたち

 
    
0610鴨0772.jpg                                            24.6.10 東京都清瀬市


  梅雨らしい天候が続いています。自然界の生き物は雨の中もこの時期の営みに余念がありませんが、私たち人間はとかくお天気の制約を受けて、梅雨時は何となく不自由な気分です。

  雨に降りこめられて所在ないひととき、このたびは季節の話題をちょっと離れて、和製漢文史上の名品であります都良香(みやこのよしか 834〜879)の「富士山記」を御紹介します。

  四季の自然の情趣を言葉に探すこととともに、実はこの「ひたちと歩く...」の連載のもう一つのテーマとして私がひそかに意識して参りましたのが、日本の漢文を振り返る試みです。動植物や季節行事に関わらない詩文は、著名な作品でも日頃のこの連載に載りにくいところがあります。こういう機会もいつかはと考えておりました。


    
0321富士6860.jpg                                         24.3.21 東京都清瀬市より

    富士山は、駿河の国に在り。峯削り成せるが如く、直(ただ)に聳えて
    天に属(つづ)く。其の高さ測るべからず。史籍の記せる所を
    歴(あまね)く覧(み)るに、未だ此の山より高きは有らざるなり。
    其の聳ゆる峯欝(さかり)に起こり、見るに天際に在りて、海中を
    臨み瞰(み)る。其の靈基(れいき)の盤連(ばんれん)する所を
    観(み)るに、数千里の間に亙(わた)る。行旅(こうりょ)の人、
    数日を経歴して、乃(すなわ)ち其の下(ふもと)を過ぐ。之(ここ)を
    去りて顧(かへり)み望めば、猶(なお)し山の下(ふもと)に在り。

                      『本朝文隋』巻十二「富士山記」

  ※以下も( )内の読み方表記は現代仮名遣い。
   原文と歴史的仮名遣い表記の訓読文は漢文(文例)のページで御覧下さい。

    
0623夏椿1249.jpg                                            24.6.23 東京都清瀬市

  「富士山記」が書かれた九世紀中葉、都の人にとって富士山は遠い異境の山でした。朝廷から地方に遣わされる役人ででもなければ、好んで遠距離を旅する用事はありません。都の人で駿河にある富士山を実際に見たことのある人はまずいませんでした。稀にその姿を直接見た人の話から、極めて高く、美しい姿で、年中雪を頂いているという、夢幻のような姿が伝承されるばかりでした。


  都良香と同時代を生きた在原業平(825〜880)はこの時代に実際に関東に下ったことが知られ、隅田河畔や埼玉県新座市などに事跡が残っています。その一代記であると読まれる『伊勢物語』の第九段、「東下り」として知られる段に見える記述も、短い中にも都人が驚嘆する富士の全容をうまく捉えて記しています。

    富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。

   時知らぬ山は富士の嶺いつとてか 鹿の子まだらに雪の降るらむ

       その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、
    なり(=形)は塩尻のやうになむありける。

  陰暦の五月つごもり(月末・または月の最終日)といえば、現行暦の六月末から七月の上旬にかけた頃です。季節は夏。その時期に雪を頂いている山に都の人はまず驚くのでしょう。歌にもそれを詠んでいます。
  そして山の高さを、「比叡の山を二十ほど積み重ねたような」としているところに、この山の尋常でないと感じられた規模が表現されています。

    
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                                            24.6.23 東京都清瀬市

  古典作品によく見られる表現として、「花」といえば桜、「祭」といえば賀茂神社のお祭(=葵祭)を意味するなど、一般的な名詞で実際はその中の固有のものを限定的に表すという用法があります。これは本来は都で暮らす人の中で通じる一種の身内言葉でした。そこで「山」といえば、それはほかでもない、平安京の北に聳える(そこから「北嶺」の別名も持った)比叡山のことでした。『伊勢物語』が驚嘆すべき富士山の大きさを説明しようとする時、もちろんその基準は比叡山だったのです。

    
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  「富士山記」の記述は『伊勢物語』よりさらに詳しく説明的です。

  その高さは計り知れない。文献の記録を残らず見わたしても、この山より高い山はないのである、と記し、 比叡山二十個分などとは言いません。

   その聳える峯は勢いよく高く盛り上がり、大空の彼方に姿を現し、中空から海中を見下ろしているという叙述は、雲の上に山頂を見せ、足許は海であるという富士山の姿を写実的に写しています。

   「盤連(ばんれん)する」の訓読みは「わだかまり、つらなる」。高い山の麓は、また巨大な量感をもってそこに横たわることを実感させる表現です。霊妙な富士山の麓が横たわる所は数千里の長い距離にわたる。旅行く人は 幾日もかけてこの山の麓を行き過ぎ、振り返って仰ぎ見ると、それでもやはりまだ山の麓にいるのだった、とある記事は実際に麓を旅した人の体験として読め、臨場感があります。

  地理を語ったあとは、霊峰富士の不思議に触れていきます。

    
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    蓋(けだ)し神仙の遊萃(ゆうすゐ)する所ならむ。
    承和年中に、山の峯より落ち来たる珠玉あり。珠に小さき孔有りきと。
    蓋し是(こ)れ仙簾(せんれん)の貫ける珠ならむ。又貞觀十七年十一月
    五日、吏民(りみん)旧(ふる)きに仍(よ)りて祭(まつり)を致す。
    日午(ひる)に加へて天甚(はなは)だ美(よ)く晴る。仰ぎて山の
    峯を観(み)るに、白衣の美女二人有り、山の嶺(いただき)の上に
    双(なら)び舞ふ。嶺(いただき)を去ること一尺余(ひとさかあまり)。
    土人(くにひと)共に見きと、古老(ころう)伝へて云ふ。


  承和年間(834〜848:仁明天皇代)というのは、良香もすでに生まれている時代ですから、この事件は当時としては「すこし前のこと」です。山の峯から落ちて来た珠玉があり、それには小さな孔が空いていたという。孔の空いた宝石、それは察するところ、仙人の簾(すだれ)に貫き通して付けた飾りの宝石なのであろう、と良香は述べています。

  また、貞觀十七年(875)十一月五日に役人と地元の民とが古いしきたりに従って富士の祭祀を執り行った、とあります。清和天皇の御代です。 良香の没年が元慶三年(879)ですから、この祭祀は「富士山記」が書かれた直前のことでしょう。

  真昼時になってますます美しく晴れた富士。振り仰いで峯を眺めると、山頂に白衣の美女が二人いて、山の上で並んで舞いを舞っているのが見えたという。その白衣の二人は山頂を一尺あまりも離れ、浮き上がっていたのを、土地の人々はたしかに見たという。
  古老の言葉として良香が記録しているのは、富士の羽衣伝説を思わせます。

    
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  どこかに宝珠の簾の掛かった神仙の住まいがあり、雪を頂く山頂に天女が舞う。富士は「蓋(けだ)し神仙の遊萃(いうすゐ)する所ならむ(思うに、この山は仙人が集い遊ぶところなのであろう)」というのが結論です。(次回に続く)

    
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                                            24.6.23 東京都清瀬市








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