2011年2月24日

第9回 一林之風、素心所愛:嵯峨天皇遺詔

第9回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち






      
      
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                                    梅にメジロ 23.2.10 東京都清瀬市

     花色風初暖
     鶯声日漸遅
     春来傷節候
     幽興復煕煕
        「春日作(しゆんじつのさく)」(嵯峨天皇)より抜粋『経国集』

   花色(くわしよく) 風初めて暖かに
   鶯声(あうせい) 日に漸(やうや)く遅し
   春来たつて 節候(せつこう)を傷み
   幽興(いうきよう) 復(ま)た煕煕(きき)たり

     節候:季節の移り変わり。
     幽興:奥深くもの静かな趣。
     煕煕:やわらぎ楽しむさま。

   花の色はようやく暖かな風をうけて、
   鶯の声も日ましにのどかになってくる。
   春が深まるにつれて、時節の過ぎ行くことに心も傷むが、
   今は奥深い自然の風興に心をなごませることにしよう。

  詩は勅撰漢詩集『経国集』(天長4年:827)に載る嵯峨天皇の御製、五言律詩の後半四句です(文例に詩全部を挙げてあります)。

      
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  詩の冒頭に「閏是新正後[閏(うるふ)は是れ 新正の後]」とあり、これが閏年の新春を詠んでいることがわかります(「新正」は新年の正月の意)。嵯峨天皇の在位中で閏正月があったのは弘仁11年(820)。その年の作と推定されます。新春の「花」であり、鶯との取り合わせからも、この「花」は梅です。

  詩はのどかな春の風物を詠みつつ、季節が移ることに感じる痛みを明かします。のどかに明るい春の季節に、心にはなお過ぎ去り行くもののはかなさが過(よ)ぎるのは、やはり初唐の詩に言う「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」(劉廷芝)に通じる感懐でしょう。はかないものははかないものとして、今はこの深い自然の趣に身を委ね、時を楽しもうという、どこか諦観の漂うしみじみとした一首です。

     
      

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                                         23.2.10 東京都清瀬市


  父桓武天皇の志を承けて京の都の礎を固め、恵まれた才能をもって自ら世の先頭に立った嵯峨天皇は、生きている間は良くも悪くも時代の主役でした。我が国の歴史上屈指の偉大な君主であったことは間違いありません。

        
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 その嵯峨天皇は遺詔(亡くなる前の詔勅、遺言)に次のように懐(こころ)を述べています。

  余昔し不徳を以て久しく帝位を忝(かたじけな)うす。夙夜兢兢として黎庶
  (れいしょ:人民)を済(すく)はんことを思ふ。然れども天下なる者は
  聖人の大宝なり。豈(あ)に但(ただ)に愚憃微身(ぐとうびしん:愚かで
  つたない者、自卑の辞)の有(ゆう:持ち物)のみならんや。故に万機の務
  (つとめ)を以て、賢明に委(ゆだ)ぬ。一林の風、素(もと)より心の愛
  する所。無位無号にして山水に詣りて逍遥し、無事無為にして琴書を翫(も
  てあそ)び以て澹泊(たんぱく)ならんと思欲(しよく)す。
                       「続日後本紀」承和九年条

        
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  徳のない身でありながら長く帝王として天下を預かる間、民に良くあれと願って一心に努めてきた。しかし天下とは有徳の聖人が大切に扱うべき宝である。つたない身が長くその位置にいるわけには行かない。するだけの務めを果たして次代の優れた人物にこれを委ねた。

  そのあとに続く述懐は、とりわけ盛んな人に見えた嵯峨天皇の言葉と思うと新鮮です。

  静かな林に風を感じて佇むこと、それがもともとの気に入りの暮らしだった。地位も権威もいらない、山の辺や水のほとりを散歩し、のんびりとして何事も為さず、琴を弾き書を読んで遊び、きままに暮らしたいと思っていた。

  本当は隠者のように暮らしたかったというのです。

        
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  同じ遺詔で、天皇は自分の埋葬の仕方について、徹底的な薄葬を言い置きました。死によって「気は天に属し、体は地に帰る」とし、「尭舜(ぎょうとしゅん、古代中国の伝説上の聖王)のような徳を持たない自分の死に、国費を費やしてはならない」と戒め、ただ土に帰るだけの遺体を埋める穴は浅く掘り、盛り土もせず、木も植えず、平らなままの地面に草の生えるにまかせるようにと、詳しく厳しく指示しました。

  遺言は守られ、そのために長い年月の間には埋葬地も分からなくなってしまいました(「山塊記」元暦元年(1184)には墓陵地不明となっている)。それはしかし、嵯峨天皇の本来の望みには適っていたのかもしれません。現在の墓陵の位置(京都市右京区北嵯峨朝原山町)は、諸説をもとに幕末になって確定されたのです。

        
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 ※「続日後本紀」承和九年
    太上天皇崩于嵯峨院。春秋五十七。遺詔曰、余昔以不徳。
    久恭帝位。夙夜兢兢、思済黎庶。然天下者聖人之大宝也。
    豈但愚憃微身之有哉。故以万機之務。委於賢明。一林之風、
    素心所愛。思欲無位無号詣山水而逍遥、無事無為翫琴書以
    澹泊。




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