2012年4月18日

第58回 瑩日瑩風:千顆万顆(せんかばんか)の花の玉


第58回【目次】         
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    * 漢文
    * みやとひたち



      
0401ヒヨドリ0006.jpg                               大寒桜 24.4.1 東京都国分寺市日立中央研究所


     瑩日瑩風 高低千顆万顆之玉
     染枝染浪 表裏一入再入之紅
     誰謂水無心 濃艶臨兮波変色
     誰謂花不語 軽漾激兮影動脣

      日に瑩(みが)き 風に瑩(みが)く、
               高低(こうてい)千顆万顆(せんかばんか)の玉。
      枝を染め 浪を染む、
       表裏(ひょうり)一入再入(いちじゅうさいじゅう)の紅(こう)。 
      誰(たれ)か謂(い)ひし 水に心無しと。
                濃艶(じょうえん)臨(のぞ)んで 波 色を変ず。
      誰(たれ)か謂(い)ひし 花は語(ものい)はずと。
              軽漾(けいやう)激して影脣(えいしん)を動かす。

     ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い
       歴史的仮名遣い表記は漢文(文例)のページで御覧下さい。

     
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                               大寒桜 24.4.1 東京都国分寺市日立中央研究所

  久しぶりに平安時代の作品を御紹介します。菅三品(菅原文時 899〜981)の「冷泉院池亭花光浮水上(れいぜいいんのちてい はなのひかりみずのうえにうかぶ)」詩の序(『本朝文粋』巻十)。村上天皇の応和元年(961)三月五日の桜花宴の折の作です。詩そのものではなく序文ですが、語数を整え、対句表現を駆使して作られており、これ自体が詩的情感に満ちています。

      
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                                          24.4.15 東京都清瀬市

  題に明らかなように、池の畔、水辺の桜を詠んだものです。

  枝に無数の花を付け、たわわに咲き満ちる桜花には、たしかに粒だったもののような感じを受けることがあります。「千顆万顆」の「顆」は果実などを扱う時にも使う、粒状の個体を数える単位です。この序は桜を輝く玉と見立てて、花に注ぐ日の光や春の風がそれをみがくという、印象的な比喩で始まっています。

  池の畔にゆたかに咲いた桜の花は、日の光にみがかれ、吹く風にみがかれて、
  あるいは高い枝で、あるいは低い水面にあって、千粒万粒の珠玉のようだ。
  花は枝を染め、またそれを映す波を染めて、表は濃く裏は薄く染め上げた紅の衣のよう。
  水には心がないとは誰が言ったのだろう。
  心があってこそ、濃く美しい花が水をのぞきこめば色を変えるのだ。
  花はものをいわぬとは誰が言ったのだろう。
  水面(みなも)に小波(さざなみ)が立つ時花影がゆれるのは、花が脣(くちびる)を動かしているからなのだ。

      
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                                   ソメイヨシノ 24.4.7 東京都清瀬市


  地上の花と水面に映る花影と、その両方をひとつの視界の中に対比的に扱うことから、広いスケールの豪華な桜空間が伝わります。

      
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  「水無心」と「花不語」とはそれぞれ中唐の詩人白居易の「過元家履信宅(げんがいえのりしんなるたくをすぐ)」詩にちなんだものです。

  同じ時期に科挙に及第した元稹(げんしん)は白居易にとって生涯の親友になりました。その没後、落花の頃にその旧宅を訪れて友を偲ぶ詩に、「落花不語(ものいはず)空しく樹を辞す」「流水心無(こころなくして)自ら池に入る」の句があります。

  元稹のことを尋ねても、淡々と散り、流れて、何も答えてくれない花と水とを辛く詠んでいるのでこう表現されますが、冷泉院池亭の桜はまさに春を謳歌する花。生き生きと楽しげにさざめくおしゃべりな花たちのようです。

  「水無心」に反駁するのに池水を主にするのではなく地上の花が臨(のぞ)き込むことを歌い、「花不語」に反駁するのに地上の桜花の側ではなく水面を詠むように、二つの世界を交差させたところにも工夫があります。

       
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                                 八重桜 24.4.15 埼玉県所沢市滝の城址公園


  菅原文時(899〜981)は平安中期の文人。天神菅原道真(845〜903)の孫にあたります。父の菅原高視(たかみ 876〜913)は道真と道真の師 島田忠臣(828〜892)の娘との間に生まれた長男ですから、漢詩人としてはまさにサラブレッドの血統です。以前に御紹介した菅原淳茂(不詳〜926)はその異腹の弟です。
  道真が大宰府に流された昌泰の変(901)では高視は連座して土佐介に左遷されています。五年後には帰京して大学頭に復帰しましたが短命でした。しかし高視の筋は、次男の文時が文章博士、右中弁、式部大輔と、この家らしい官職を歴任して順当に八十二年の生涯を送ったのをはじめ、学者の家として長く続きました。高視の曾孫 孝標(たかすえ)は、自身は地味な官職に甘んじましたが、息女が『更級日記』を著して文学史にその名を留めました。

      
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                                       山桜 24.4.9 東京都清瀬市


 

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