第13回 桜花賦:平城天皇の桜詩 空海帰国時期の桜事情
第13回【目次】
* 漢詩
* みやとひたち
染井吉野 23.4.2 東京都清瀬市
送気時多少
垂陰復短長
如何此一物
擅美九春場
氣を送る 時(よりより)に多少(たせう)
陰(かげ)を垂る 復(ま)た短長(たんちやう)
如何(いか)なるぞ 此の一物(いちぶつ)の
美を九春(きうしゆん)の場(には)に
擅(ほしきまま)にすることは
※九春:春三箇月、九十日の春の意。
香気を送ってくること、ある時多く、ある時少なく、
花影を地に投げかけること、ある時長く、ある時短い。
どうしてだろう、数々ある春のひとつのものである桜が、
美を春の場(にわ)にほしいままにするのは。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
空海(774〜835)が大同元年(806年)十月に帰国した時、桓武天皇はすでに崩御のあと、世は第五十一代平城天皇(774〜824)の御代になっていました。平城帝は桓武天皇の第一皇子、生母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ・藤原良継の娘)。次代の嵯峨天皇とは同母の兄弟です。
冒頭の詩は、その平城天皇の五言律詩「桜花を賦(ふ)す」の後半四句です。「賦」は題に拠って詩を作ることを言います。この作詩事情は記録はありませんが、宮中の詩会に桜を題にして詠まれたものと思われます。文例に全詩を挙げてあります。
三春滝桜 23.3.31 東京都清瀬市
「送気時多少、垂陰復短長」の二句は律詩の規則で必ず対句に作る場所です。ここでも対句で、風に漂う桜花の香気と美しい花枝の姿とを写し、次の句で「どうしてだろう」と自問します。春には咲く花も多く、心楽しませる風情にはまことに恵まれているというのに、桜一つがこの陽春の庭を我がもののようにしているのは、と。
桜花がことのほか魅力的に見えることを、「桜が美をほしいままにしている」と擬人化して表すのは、匂うような花の美しさをさらにコケティッシュなものに見せて効果的です。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
桜は古く神話時代から日本人が大切にしてきた花でしたが、古代の漢詩に桜が詠まれることは稀でした。それは、我が国の古代文学の黎明期に、当初のお手本とした漢籍に「桜」がなかったことに拠るでしょう。「桜」の文字はあるのですが、指しているモノが違うのです。中国の「桜」は今日我が国で言うユスラウメの仲間のこと。私たちの知る桜花ではありません。ですから、初めての漢詩集「懐風藻」(天平勝宝3年:751)には、日本人が当時から大好きな花でありながら、桜を詠んだ詩は二首しかありませんでした(「みやと探す 作品に書きたい四季の言葉」第7回花の季節 に関係記事)。
しかし、桜を愛する日本人は、お手本になくても次第に桜の詩を詠むようになって行きます。平城天皇の桜詩はその比較的早い頃の作品といえます。
染井吉野 23.3.31 東京都清瀬市
この「桜花賦」が注目されるのは、この時期の漢詩に桜が詠まれているという珍しさだけではなく、桜の扱われ方です。
「花」といえばそのまま桜花を表すように、貴族社会が桜を花の中の花として偏愛するのは平安時代になって顕著になる傾向です。奈良時代はむしろ第一の花といえば梅を指すことが多く、「花」と呼んで梅花を歌う詩歌が数々詠まれました。
平安京に遷都して間もなく即位した平城天皇は、文化的にはまだ奈良の人です。従って、桜ばかりが他に群を抜いて魅力的であるというこの時の桜詩は、ただ平城天皇個人の趣味を率直に詠んだものですが、平安朝の膨大な桜の歌に先行する詩として興味深いものです。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
さて、空海は当初の予定を覆して二年で帰国しましたが、それは当時は罪に当たる行為でした。空海は都に入ることの許可を待って、二年ほどを九州大宰府で過ごしました。
染井吉野 23.3.31 東京都清瀬市
即位当初は政治に意欲的に取り組んだといわれる平城天皇でしたが、病弱で務めることができず、大同四年(809)在位三年で、弟である皇太子に譲位しました。それが嵯峨天皇です。その年の七月、ようやく空海は五年ぶりに都に帰ることが出来ました。
空海が帰京して間もなく(大同五年九月)、嵯峨天皇ののちの治世に大きな影響をもたらすことになる政争が起こります。いわゆる「薬子の変」です。退位した兄平成上皇が、その後健康を取り戻したことから、再び帝位に就こうと画策し、旧都の奈良を本拠に起こした紛争です。
三春滝桜 23.3.31 東京都清瀬市
藤原薬子(ふじわらのくすこ)が平城天皇の妃の母でありながら、かつ天皇の寵姫になったのはまだ即位前のことです。恋であればとかく不可解は付き物と言え、このような人間関係に堪える女性は確かにただ者ではないのでしょう。当時の桓武天皇は、乱倫を憎んで薬子を宮中から放逐しました。しかし咎める人がなくなると、平城天皇はまた薬子を呼び戻し、公職である尚侍(ないしのかみ)に任じて傍に置きました。「薬子の変」と呼ばれるのは、その大胆な野心家の寵姫薬子が唆して起きたとされるところからの命名です。
生涯にわたって宗教者に留まらないさまざまな顔を見せた空海ですが、「薬子の変」が勃発すると、いち早く嵯峨天皇支持の立場を表明して鎮護国家の大祈祷を行っています。
八重桜の蕾 23.4.1 東京都清瀬市
明敏な嵯峨天皇によって「薬子の変」はあっという間に鎮圧され、平城上皇は出家して、奈良で静かな十数年の余生を送りました。
その皇子に阿保親王がいます。阿保親王の五男が日本文学史上極めて魅力的な存在として忘れられない在原業平です。
「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と業平が歌う頃には、桜はすでに王朝貴族皆にとって特別に愛着のある花になっていました。
山桜の初花 23.4.2 東京都清瀬市
* 漢詩
* みやとひたち
染井吉野 23.4.2 東京都清瀬市
送気時多少
垂陰復短長
如何此一物
擅美九春場
氣を送る 時(よりより)に多少(たせう)
陰(かげ)を垂る 復(ま)た短長(たんちやう)
如何(いか)なるぞ 此の一物(いちぶつ)の
美を九春(きうしゆん)の場(には)に
擅(ほしきまま)にすることは
※九春:春三箇月、九十日の春の意。
香気を送ってくること、ある時多く、ある時少なく、
花影を地に投げかけること、ある時長く、ある時短い。
どうしてだろう、数々ある春のひとつのものである桜が、
美を春の場(にわ)にほしいままにするのは。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
空海(774〜835)が大同元年(806年)十月に帰国した時、桓武天皇はすでに崩御のあと、世は第五十一代平城天皇(774〜824)の御代になっていました。平城帝は桓武天皇の第一皇子、生母は皇后藤原乙牟漏(おとむろ・藤原良継の娘)。次代の嵯峨天皇とは同母の兄弟です。
冒頭の詩は、その平城天皇の五言律詩「桜花を賦(ふ)す」の後半四句です。「賦」は題に拠って詩を作ることを言います。この作詩事情は記録はありませんが、宮中の詩会に桜を題にして詠まれたものと思われます。文例に全詩を挙げてあります。
三春滝桜 23.3.31 東京都清瀬市
「送気時多少、垂陰復短長」の二句は律詩の規則で必ず対句に作る場所です。ここでも対句で、風に漂う桜花の香気と美しい花枝の姿とを写し、次の句で「どうしてだろう」と自問します。春には咲く花も多く、心楽しませる風情にはまことに恵まれているというのに、桜一つがこの陽春の庭を我がもののようにしているのは、と。
桜花がことのほか魅力的に見えることを、「桜が美をほしいままにしている」と擬人化して表すのは、匂うような花の美しさをさらにコケティッシュなものに見せて効果的です。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
桜は古く神話時代から日本人が大切にしてきた花でしたが、古代の漢詩に桜が詠まれることは稀でした。それは、我が国の古代文学の黎明期に、当初のお手本とした漢籍に「桜」がなかったことに拠るでしょう。「桜」の文字はあるのですが、指しているモノが違うのです。中国の「桜」は今日我が国で言うユスラウメの仲間のこと。私たちの知る桜花ではありません。ですから、初めての漢詩集「懐風藻」(天平勝宝3年:751)には、日本人が当時から大好きな花でありながら、桜を詠んだ詩は二首しかありませんでした(「みやと探す 作品に書きたい四季の言葉」第7回花の季節 に関係記事)。
しかし、桜を愛する日本人は、お手本になくても次第に桜の詩を詠むようになって行きます。平城天皇の桜詩はその比較的早い頃の作品といえます。
染井吉野 23.3.31 東京都清瀬市
この「桜花賦」が注目されるのは、この時期の漢詩に桜が詠まれているという珍しさだけではなく、桜の扱われ方です。
「花」といえばそのまま桜花を表すように、貴族社会が桜を花の中の花として偏愛するのは平安時代になって顕著になる傾向です。奈良時代はむしろ第一の花といえば梅を指すことが多く、「花」と呼んで梅花を歌う詩歌が数々詠まれました。
平安京に遷都して間もなく即位した平城天皇は、文化的にはまだ奈良の人です。従って、桜ばかりが他に群を抜いて魅力的であるというこの時の桜詩は、ただ平城天皇個人の趣味を率直に詠んだものですが、平安朝の膨大な桜の歌に先行する詩として興味深いものです。
染井吉野 23.4.1 東京都清瀬市
さて、空海は当初の予定を覆して二年で帰国しましたが、それは当時は罪に当たる行為でした。空海は都に入ることの許可を待って、二年ほどを九州大宰府で過ごしました。
染井吉野 23.3.31 東京都清瀬市
即位当初は政治に意欲的に取り組んだといわれる平城天皇でしたが、病弱で務めることができず、大同四年(809)在位三年で、弟である皇太子に譲位しました。それが嵯峨天皇です。その年の七月、ようやく空海は五年ぶりに都に帰ることが出来ました。
空海が帰京して間もなく(大同五年九月)、嵯峨天皇ののちの治世に大きな影響をもたらすことになる政争が起こります。いわゆる「薬子の変」です。退位した兄平成上皇が、その後健康を取り戻したことから、再び帝位に就こうと画策し、旧都の奈良を本拠に起こした紛争です。
三春滝桜 23.3.31 東京都清瀬市
藤原薬子(ふじわらのくすこ)が平城天皇の妃の母でありながら、かつ天皇の寵姫になったのはまだ即位前のことです。恋であればとかく不可解は付き物と言え、このような人間関係に堪える女性は確かにただ者ではないのでしょう。当時の桓武天皇は、乱倫を憎んで薬子を宮中から放逐しました。しかし咎める人がなくなると、平城天皇はまた薬子を呼び戻し、公職である尚侍(ないしのかみ)に任じて傍に置きました。「薬子の変」と呼ばれるのは、その大胆な野心家の寵姫薬子が唆して起きたとされるところからの命名です。
生涯にわたって宗教者に留まらないさまざまな顔を見せた空海ですが、「薬子の変」が勃発すると、いち早く嵯峨天皇支持の立場を表明して鎮護国家の大祈祷を行っています。
八重桜の蕾 23.4.1 東京都清瀬市
明敏な嵯峨天皇によって「薬子の変」はあっという間に鎮圧され、平城上皇は出家して、奈良で静かな十数年の余生を送りました。
その皇子に阿保親王がいます。阿保親王の五男が日本文学史上極めて魅力的な存在として忘れられない在原業平です。
「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と業平が歌う頃には、桜はすでに王朝貴族皆にとって特別に愛着のある花になっていました。
山桜の初花 23.4.2 東京都清瀬市