2011年7月 1日

第25回 左右好風来:氏の長者藤原道長 満ち足りた涼を詠む 三蹟のことなど


第25回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち





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     好風來處慰心腸
     左右飄衣夏日忘

       好風(かうふう)来たる処 心腸(しんちやう)慰(なご)む
       左右(さう)衣を飄(ひるがへ)し 夏日(かじつ)を忘る

    
0702蝶トンボ7072.jpg                                       蝶トンボ 23.7.2 東京都清瀬市

  詩は平安中期、一条天皇の御代の人、摂関政治の頂点に立った藤原道長(966〜1027)の七言律詩「左右好風來(左右より好き風来たる)」から、冒頭の二句です。文例のページに詩の全文を挙げてあります。

   
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  心地よい風が吹いてきて、暑さに苦しめられていた心身は穏やかに慰められる。風はあちらからこちらから吹き通い、衣の袖をひるがえして、身から苦しい熱を払ってゆく。そのいっとき、夏の暑さを忘れる。

  こんなふうにこの詩は始まっています。

        
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                                      蝶トンボ 23.7.2 東京都清瀬市

  梅雨も明けないまま、関東は摂氏35度を超える猛暑日の日がもう数日になります。

  折しも節電の謳われる夏、冷房を節約することに健康上の危険が絡みそうな、いやな流れですね。

  驚いたことに、現在東京都下の家電販売店には扇風機が払底しております。特殊なものはないこともないのですが、ごく普通の家庭用扇風機がありません。電力の消費を押さえて涼をとろうという考えを持つ人がいかに多いかということです。

    
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  そもそも東京のあたりでも夏はほぼ亜熱帯の気象です。昔から我が国の暮らしにおいては、一年で一番自然条件が厳しく過ごしにくいのは夏だと決まっておりました。

  夏をどう凌ぐか、何を慰めとするか、毎年毎年頭を悩まして、しかし考えるのも億劫になる暑さに結局これといった打開策もなく、千数百年の間、詩歌には夏の辛さが訴えられ続けて来ております。また、以前お話ししたように、四季の中で夏ほど歌の乏しい季節もないのです。文人貴族もおそらく夏バテすることが珍しくなかったものと想像します。

    
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  詩歌の表現としては「涼」を詠むのが一つの型ではあります。水辺や緑の繁る木立など、いかにもという場所で涼風を詠んだ詩は、もともと少ない夏の詩の中では一大ジャンルです。

  それらの中で、あちらからも、こちらからも好い風ばかり吹いてきて、実に良い気持ちだと歌うこの詩は、炎熱の時期にあって苦を寄せ付けず、どこか足りている、際立って機嫌のよい感じが致します。

    
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  和歌でもこの作者の歌として有名なのは、いかにも上機嫌の極(きわみ)といったこの歌です。

  この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば


  見ようによれば傲慢そのもの、天も恐れぬ勢いです。かまわず詠んでのけたところに当時の道長の圧倒的な権勢が覗われます。

  この人こそ藤原氏の権勢の歴史的象徴のような人物。平安中期、第66代一条天皇(980〜1011)に長女彰子を中宮(=皇后)として入れ(999年入内)、次女妍子を三条天皇の中宮に(1012年立后)、また三女威子を長女彰子の産んだ後一条天皇の中宮に立てて、長らく外戚として政治を恣(ほしいまま)にしたことで知られます。先の歌は、寛仁二年(1018)十月の、三女威子の立后の日の祝宴に詠まれたものです。道長に批判的であったという藤原実資(ふじわらさねすけ 957〜1046)の有名な日記『小右記』に記されて今日に伝えられました。実資は習慣に背いて返歌を断り、非礼の譏りをかわすためでしょう、皆でこの歌を繰り返し歌うことを提案してその場を凌いだことが記されています。

    
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  道長の時代、10世紀末から11世紀にわたる時期とは、日本の国風文化の最盛期にほかなりません。三船の誉れで名高い才人藤原公任(966〜1041)が『和漢朗詠集』を編み、三蹟の藤原佐理(944〜998)、藤原行成(972〜1028)などが活躍した時代です。

  公任は道長と同年。道長の父はその昔、よくできた公任と息子たちとを較べて不出来を嘆いたと歴史物語『大鏡』に残っています。また、道長との関係で言えば、ことに書の世界にはなじみ深い藤原行成は、早くに父を亡くした不遇の身を道長の引き立てによって陽の当たる場所に出た人です。

    
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  行成は忍耐強く、思慮深く、穏和であったと言い、付き合って安心と人に思われる性質でもあったのでしょう、道長の腹心でありながら、必ずしも道長とは利害をともにしなかった一条天皇にも信任され、道長が最も恐れ、自分の娘のために追い落とそうと露骨に迫害した一条天皇の第一の后藤原定子(道長の兄の長女)のサロンとも行成は良好な関係を長く保ちました。定子に仕えた清少納言の随筆『枕草子』に、非常に好意的に行成が描かれている背後には、定子の父 中関白(なかかんぱく)藤原道隆の死後、掌を反すように道長に靡いた人びとの、清少納言から見てやりきれない信義に悖るさまざまな動きがあったことが想像されます。行成は圧迫されて辛い暮らしを強いられた定子の方にもとかく足を運んだのです。

  しかし、それは単純に行成の義の厚さと見る材料にはならないようです。

  一条天皇は死の直前に行成を召して、定子の生んだ皇子、資質も備わった第一皇子を次の皇太子に立てるよう遺言なさろうとしました。それが叶えば定子の実家中関白家にとっては起死回生のチャンスです。しかし行成はそれを退け、むしろ天皇に強く迫って彰子腹の皇子すなわち道長の外孫に変更させたことが、行成本人の日記『権記』に残っています。これが道長の藤原北家の長い繁栄を確実にした瞬間です。

  清少納言などとも如才なく付き合い、訪れては味方と思わせる一方で、時局を見る冷徹なリアリストの顔も持っていました。

  いわゆる苦労人のタイプだったのかもしれません。やはり三蹟に数えられる藤原佐理が、いわゆる芸術家肌の破天荒な人で、社会人としての常識を欠いたまったくのダメ人間だった(『大鏡』に、「如泥人」(グダグダの人)と評されています)のと実に対照的に、行成は終始大人らしく身を処して円満な官僚人生を全うしました。

    
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  さて、話題の才女清少納言を抱える定子のサロンは、定子の父関白道隆が急死するまでは、宮廷社交界の中心でした。后の御機嫌伺いに貴顕が集いました。中関白家が衰亡し、不遇のうちに24歳で定子が亡くなった後も、その残像は宮中にむしろ美しく印象深く残ることになりました。道長は自分の娘の周辺を、かつての定子のサロン以上に魅力的なものにしようと努めて才女を集めました。『源氏物語』の一部を書いて見出だされたとされる紫式部や天才歌人和泉式部、文才だけでなく良妻賢母として人望が厚かった赤染衛門など、当時話題の才媛が招聘されました。自らも文学に造詣の深かった道長は、思惑があったにせよ、そうした人びとの文学活動を熱心に援助しました。日本の文学史上特異な輝きを放つ平安女流文学の、紛れもないパトロンだったのです。もはや世界遺産といってよい長編物語『源氏物語』五十四帖の執筆は道長の物質的援助なしには実現しなかったでしょう。


    
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                                           23.7.3 東京都清瀬市

  残された歌や詩を見ると、実はこの「左右好風來」や「望月の...」の作に限らず、概ね機嫌のよい、線の太い、器の大きさを感じさせる作風です。それでいて決して繊細さを欠いてもいません。有能な人の醸し出す独特の魅力というと、思い入れが強すぎるでしょうか。恐らく能力の一段大きな人で、仮に政治家にならなかったとしても、生きていた場所で一廉の名を残す人になったのではないかと空想します。

  『紫式部日記』の記事から、紫式部が、一時期、道長に恋していたのは間違いないと読む研究者は少なくありません。

    
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  道長は仏教に帰依して、晩年は法成寺を建立して自ら住み、来世を祈りました。「御堂関白」という通称はこの暮らしに由来します。栄華を極めたと世間には崇められ、ありがたい例として当時の赤染衛門が書いた『栄華物語』はまさに道長の栄華を描く物語でした。しかし、六十二年の生涯に、授かった子供に次々先立たれ、悲しみも多い人生であったとも伝わります。
  

   
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