第17回 惜桜花:日本の花 日本の詩 島田忠臣2
第17回【目次】
* 漢詩
* みやとひたち
八重桜 23.4.25 埼玉県所沢市
宿昔猶枯木
迎晨一半紅
國香知有異
凡樹見無同
折欲妨人鏁
含應禁鳥籠
此花嫌早落
爭奈賂春風
宿昔(しゆくせき)猶(なほ)し枯木(こぼく)のごとく
晨(あした)を迎へて一半(いつぱん)紅(くれなゐ)なり
国香(こくかう)異(け)しきこと有るを知り
凡樹(ぼんじゆ)同(ひと)しきこと無きを見る
折(を)るに人を妨げて鏁(くさり)せんとし
含むに鳥を禁(いさ)めて籠(こ)むべし
此の花の早く落つることを嫌ふ
爭奈(いかに)せん春風に賂(まひな)ふことを
染井吉野 23.4.14 東京都清瀬市
詩は島田忠臣(しまだのただおみ 828〜892頃)の五言律詩「惜櫻花(桜花を惜しむ)」(『田氏家集』所収)です。前回の文例のページにも訳を付けて挙げました(墨場必携:漢詩 惜櫻花 島田忠臣)。
第二句にある「晨」は夜明けのことです。桜の薄紅は朝日の光に映えるものと、古くから早朝の桜が好んで歌われました。新しい歌でも私たちが滝廉太郎の曲でよく知っている竹島羽衣の「花」があります。隅田川河畔の春を詠んだ歌詞のその二番は、「見ずや あけぼの 露浴びて 我にもの言ふ 桜木を(ごらんなさい 昇る日の光の中 朝露を浴びて こちらに語りかけてくる 桜の花の木々を)」と始まります。夜明けの河畔、曙光に輝いてものを言いかけてくるかのような生き生きとした花の風情は、「花」詩の中でも印象に深く、忘れ難い美しさです。
染井吉野 22.3.27 東京都清瀬市
さて、この「惜櫻花」の中で注目されるのは、第三句にある「国香」という言葉です。桜花を「我が国の誇りとする香り」と表現するのは、この花を我が国日本を代表するものであると強く意識した言葉遣いです。
染井吉野 23.4.3 東京都清瀬市
古代の日本人は中国の詩に忠実に倣って漢詩を学習する時期に、手本とする中国詩に「桜」の詩がないこと、そもそも中国に桜花がなかったことに気づいたのでしょう。
桜は私たち日本人が神話時代から親しんできた花です。年ごとに春を彩り、花神コノハナサクヤヒメ(桜の花が咲くように美しい姫)の御名にも示されるように、季節の美を象徴する存在として、当たり前に見ていた花が、当時圧倒的な先進国であった中国にはなく、日本固有のものであったという発見は、その時の日本人の胸に驚きであるとともに何かしら誇らしい衝撃だったのではないでしょうか。隋唐の詩を詳しく学ぶ過程で、日本人は身近にあった桜を、この日本のものとして、自分自身が日本人であるという帰属意識とも共に、再認識したに違いありません。
山桜 23.4.4 東京都清瀬市
「懐風藻」(天平勝宝3年 751)の風景に初めて桜の姿が現れてから半世紀の後、平城天皇はついに桜を主題にして漢詩を詠みました(「桜花賦」)。この時期に、日本人は本家の創作リストになくても好きな題材について詩が詠めるようになっていたのです。そこからさらに半世紀後の人島田忠臣は、桜を讃えて、
この香はほかの花の香とは較べものにならない
ほかの木々が桜とは較べものにならないことはわかっている
と歌います(「惜櫻花」第三句、第四句)。
これほどに大切な桜なればこそ、この花を損ないたくないと思い、詩の後半には次のような言葉が並んでいます。
誰かが折ろうとするなら 鎖に繋(つな)いでそれを妨げようと思い
鳥が啄(ついば)もうとするなら 鳥を禁足して籠に閉じこめよう
この花が早く散ってしまうのはいやだ
花を散らさぬよう 春風には賂(まいない)を贈ろうと思うのだが
さて どのようにしたらよいのだろう
何としても桜を散らせたくないという気持ちから、いささか無茶を言っているようなこのもの言いは、そうです、私たちが王朝の和歌によく見かける桜偏愛の、あの感じそのものです。
染井吉野 23.4.15 東京都清瀬市
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(この世に桜というものがいっそ無かったら、桜に振り回されることもなく、春はもっとのどかに過ごせただろうに 「古今和歌集」春53)
はらはらさせられるくらいなら、いっそ無ければよい、とまで究極の表現で桜への思いを歌うのは、ご存じ在原業平(825〜880)の春の歌。同時代を席巻し、多くの歌や物語にも引かれて時代をわたり、今日まで愛唱されてきた歌です。
この業平は島田忠臣より三歳年長のほぼ同じ時代の人でした。業平が思いのままに桜への愛着を歌ったように、同じ時期、忠臣は漢詩で桜への愛惜を詠んだのです。ここに至って、漢詩は宮廷の場の公器であるばかりでなく、和歌と同じように私的な場面でも、和歌と同じように自由に思いを託すことのできる自在の表現手段になっていたのです。
染井吉野 23.4.15 東京都清瀬市
島田忠臣は能吏としても活躍し、比類のない「詩匠」と時代の知識人に尊敬を集めた人でしたが、出自は低く、終生官位は五位止まりでした。父母の名もわかっておりません。忠臣の祖父にあたる人(島田清臣)が、尾張の土豪でしたが才能に恵まれて大学寮に入ることを許され、そこからはじめて官僚の列に入ったという家柄です。その孫である忠臣も門閥のない文章生から、学問一つで貴族社会を生き抜きました。文徳・清和両天皇の侍読を務めた文章博士菅原是善(すがわらこれよし)に就いて学び、のちには是善が子道真(みちざね 845〜 903)の教育を託しました。菅原道真が初めて漢詩を作ったのはこの忠臣の指導で、11歳の時であったと『菅家文集』にあります。忠臣の長女が道真の妻になるなど、道真との深い親交は生涯に及びました。
大島桜 23.4.15 東京都清瀬市
* 漢詩
* みやとひたち
八重桜 23.4.25 埼玉県所沢市
宿昔猶枯木
迎晨一半紅
國香知有異
凡樹見無同
折欲妨人鏁
含應禁鳥籠
此花嫌早落
爭奈賂春風
宿昔(しゆくせき)猶(なほ)し枯木(こぼく)のごとく
晨(あした)を迎へて一半(いつぱん)紅(くれなゐ)なり
国香(こくかう)異(け)しきこと有るを知り
凡樹(ぼんじゆ)同(ひと)しきこと無きを見る
折(を)るに人を妨げて鏁(くさり)せんとし
含むに鳥を禁(いさ)めて籠(こ)むべし
此の花の早く落つることを嫌ふ
爭奈(いかに)せん春風に賂(まひな)ふことを
染井吉野 23.4.14 東京都清瀬市
詩は島田忠臣(しまだのただおみ 828〜892頃)の五言律詩「惜櫻花(桜花を惜しむ)」(『田氏家集』所収)です。前回の文例のページにも訳を付けて挙げました(墨場必携:漢詩 惜櫻花 島田忠臣)。
第二句にある「晨」は夜明けのことです。桜の薄紅は朝日の光に映えるものと、古くから早朝の桜が好んで歌われました。新しい歌でも私たちが滝廉太郎の曲でよく知っている竹島羽衣の「花」があります。隅田川河畔の春を詠んだ歌詞のその二番は、「見ずや あけぼの 露浴びて 我にもの言ふ 桜木を(ごらんなさい 昇る日の光の中 朝露を浴びて こちらに語りかけてくる 桜の花の木々を)」と始まります。夜明けの河畔、曙光に輝いてものを言いかけてくるかのような生き生きとした花の風情は、「花」詩の中でも印象に深く、忘れ難い美しさです。
染井吉野 22.3.27 東京都清瀬市
さて、この「惜櫻花」の中で注目されるのは、第三句にある「国香」という言葉です。桜花を「我が国の誇りとする香り」と表現するのは、この花を我が国日本を代表するものであると強く意識した言葉遣いです。
染井吉野 23.4.3 東京都清瀬市
古代の日本人は中国の詩に忠実に倣って漢詩を学習する時期に、手本とする中国詩に「桜」の詩がないこと、そもそも中国に桜花がなかったことに気づいたのでしょう。
桜は私たち日本人が神話時代から親しんできた花です。年ごとに春を彩り、花神コノハナサクヤヒメ(桜の花が咲くように美しい姫)の御名にも示されるように、季節の美を象徴する存在として、当たり前に見ていた花が、当時圧倒的な先進国であった中国にはなく、日本固有のものであったという発見は、その時の日本人の胸に驚きであるとともに何かしら誇らしい衝撃だったのではないでしょうか。隋唐の詩を詳しく学ぶ過程で、日本人は身近にあった桜を、この日本のものとして、自分自身が日本人であるという帰属意識とも共に、再認識したに違いありません。
山桜 23.4.4 東京都清瀬市
「懐風藻」(天平勝宝3年 751)の風景に初めて桜の姿が現れてから半世紀の後、平城天皇はついに桜を主題にして漢詩を詠みました(「桜花賦」)。この時期に、日本人は本家の創作リストになくても好きな題材について詩が詠めるようになっていたのです。そこからさらに半世紀後の人島田忠臣は、桜を讃えて、
この香はほかの花の香とは較べものにならない
ほかの木々が桜とは較べものにならないことはわかっている
と歌います(「惜櫻花」第三句、第四句)。
これほどに大切な桜なればこそ、この花を損ないたくないと思い、詩の後半には次のような言葉が並んでいます。
誰かが折ろうとするなら 鎖に繋(つな)いでそれを妨げようと思い
鳥が啄(ついば)もうとするなら 鳥を禁足して籠に閉じこめよう
この花が早く散ってしまうのはいやだ
花を散らさぬよう 春風には賂(まいない)を贈ろうと思うのだが
さて どのようにしたらよいのだろう
何としても桜を散らせたくないという気持ちから、いささか無茶を言っているようなこのもの言いは、そうです、私たちが王朝の和歌によく見かける桜偏愛の、あの感じそのものです。
染井吉野 23.4.15 東京都清瀬市
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(この世に桜というものがいっそ無かったら、桜に振り回されることもなく、春はもっとのどかに過ごせただろうに 「古今和歌集」春53)
はらはらさせられるくらいなら、いっそ無ければよい、とまで究極の表現で桜への思いを歌うのは、ご存じ在原業平(825〜880)の春の歌。同時代を席巻し、多くの歌や物語にも引かれて時代をわたり、今日まで愛唱されてきた歌です。
この業平は島田忠臣より三歳年長のほぼ同じ時代の人でした。業平が思いのままに桜への愛着を歌ったように、同じ時期、忠臣は漢詩で桜への愛惜を詠んだのです。ここに至って、漢詩は宮廷の場の公器であるばかりでなく、和歌と同じように私的な場面でも、和歌と同じように自由に思いを託すことのできる自在の表現手段になっていたのです。
染井吉野 23.4.15 東京都清瀬市
島田忠臣は能吏としても活躍し、比類のない「詩匠」と時代の知識人に尊敬を集めた人でしたが、出自は低く、終生官位は五位止まりでした。父母の名もわかっておりません。忠臣の祖父にあたる人(島田清臣)が、尾張の土豪でしたが才能に恵まれて大学寮に入ることを許され、そこからはじめて官僚の列に入ったという家柄です。その孫である忠臣も門閥のない文章生から、学問一つで貴族社会を生き抜きました。文徳・清和両天皇の侍読を務めた文章博士菅原是善(すがわらこれよし)に就いて学び、のちには是善が子道真(みちざね 845〜 903)の教育を託しました。菅原道真が初めて漢詩を作ったのはこの忠臣の指導で、11歳の時であったと『菅家文集』にあります。忠臣の長女が道真の妻になるなど、道真との深い親交は生涯に及びました。
大島桜 23.4.15 東京都清瀬市