2013年3月 8日

第79回 青春二三月:春の日に静かに坐して思うこと


第79回【目次】         
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    * 漢詩 春日静坐
    * 漢詩 水仙
    * みやとひたち 三月十一日猫



 
    
0309コサギ7144.jpg                                        コサギ 25.3.9 東京都清瀬市


       青春二三月
       愁隋芳草長

  青春(せいしゅん)二三月(にさんがつ)
  愁ひは芳草(ほうそう)に随(したが)ひて長し

        ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い
       歴史的仮名遣い表記は漢詩(文例)のページで御覧下さい。

    
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  詩は夏目漱石(なつめそうせき:1867〜1916)の五言古詩「春日静坐(しゆんじつ せいざ)」の冒頭の二句です。十四句にわたる詩の全体は文例のページに挙げてあります。


   
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                                       メジロ 25.3.7 東京都清瀬市

  「青春」とは季節に色を充てて示す表し方で、ここでは「春」と同じ意味です。前回第78回の菅三品の七絶の所でもお話しした通り、中国文学には古くから季節と四方位、また季節と色とに決まった組み合わせがありました。「青春」、すなわち春の色は「青」というわけです。ちなみに、夏は赤(朱)で「朱夏」、秋は「白秋」、冬は黒(玄)で「玄冬」という別名を持っています。


    
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                                           25.3.8 東京都清瀬市


  「青春」というと、今日の私たちにはむしろ人間の年齢の一時期、若い世代を意味する言葉として親しい単語です。「青」というのも未成熟なみずみずしさに感じられて、いかにも若年らしい感じで繋がりますが、もともと「春」と、季節を言う「青春」には差違はありません。「青春」というのはズバリ「春」のこと。若き時は人生の、やはり春の時期でありましょう。

    
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                                           25.3.8 東京都清瀬市


  冒頭の「青春」はただ季節の「春」のこと。春の二月、三月というのは、陰暦の如月、弥生のこと。春が訪れてひと月、あたりに陽気はゆきわたり、野の草の丈も伸びて来る頃です。

  この詩が書かれたのは、記録に拠れば明治三十一年(1898)のこと。明治五年(1872)には制度として暦はもう現行暦に改まっていました。しかし韻文ですから、日常の暦がどうであれ、作詩は陰暦の習慣に即します。またそう見なければ、ここに実際詠まれている自然の景観が気象に合いません。ちなみに今のカレンダーに重ねれば、如月(陰暦二月)は、平成二十五年の場合三月十二日からです。ちょうど今頃からが、時期としてはこの詩の風光に重なります。

    
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  第二句には「愁ひは芳草に随ひて長し」とあります。ここに愁ひが詠まれるのは言わば春の詩情の伝統です。

  古くは「万葉集」に大伴家持が

   うらうらと照れる春日に雲雀(ひばり)上がり心悲しもひとりし思へば
                         (「万葉集」4392)

と詠みました。「伊勢物語」では在原業平と思しき「男」が

   起きもせず寝もせで夜を明かしては 春のものとてながめくらしつ
             (「伊勢物語」二段、「古今和歌集」恋三616)
と歌っています。

  のどかな春の陽光の中で家持がふと襲われる「悲しさ」、恋の最中にあっても温かい雨の風景に柔らかく沈んでゆく業平のもの思い(「ながめ」)、その繊細でセンチメンタルな情感を「春愁」と呼びます。この情感は広く共感されるものであったのでしょう、季語にもなっています。漱石がこの詩に詠む「愁ひ」も根はこれと同じものでしょう。

    
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                                           25.3.8 東京都清瀬市

  厳しい季節が過ぎ、春が訪れて、野山は目覚めて花が咲き、鳥が歌う。その明るい景色の中に居て、それにひとり同化できず、と言って取り立てて難儀があるわけでもないのに、理由もなくもの悲しい思いに囚われる というのは、おそらく人間の持つ良い意味の複雑さでありましょう。しかし思えば贅沢な憂鬱です。二年前の春、東日本大震災を経験してわかりました。本当に厳しく辛い境遇には春愁は無縁であるということを。「春の愁ひ」は大概に幸福である人間の余裕の上に襲い来るものなのでしょう。

   
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