2011年9月29日

第34回 碧浪金波三五初:夜の晴明


第34回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち



      
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     碧浪金波三五初
     秋風計會似空虚
     自疑荷葉凝霜早
     人道蘆花過雨餘
     岸白還迷松上鶴
     潭融可算藻中魚
     瑤池便是尋常號
     此夜淸明玉不如

       碧浪(へきろう)金波(きんぱ)三五(さんご)の初(はじめ)
       秋風(しゅうふう)計会(けいかい)して空虚に似たり
       自(みずか)ら疑ふ 荷葉(かよう)凝霜(ぎょうそう)早きかと
       人は道(い)ふ 蘆花(ろか)過雨(かう)に余れるかと
       岸白くして 還(かえ)りて松上の鶴に迷ひ
       潭(ふち)融(とお)りて 
                藻中(そうちゅう)の魚を算(かぞ)へつべし
       瑤池(ようち)は便(すなわ)ち是れ尋常(よのつね)の号(な)
       此の夜の晴明 玉も如(しか)じ

            ※( )内の読み仮名は現代仮名遣い

    
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                                     カイツブリ 23.9.24 東京都清瀬市

  詩は平安前期、菅原淳茂(不詳〜926)の七言律詩「月影満秋池(げつえいしゅうちにみつ)」です。

  「月影(げつえい=つきかげ)」は月の光です。「かげ」という言葉にはもともと光の当たらない暗部を表す「陰」の意味と、輪郭・シルエットを表す「影」の意味との二系統があります。「面影」「人影」などと用いるのは後者で、この「かげ」の本質は「かたち」です。これが月、星、太陽、燈火、など発光して見えるものを対象にした時、私たちはその存在を「かたち」で捉えるというよりは「光」として認識します。そこから「月かげ」「星かげ」「日かげ」「火(ほ)かげ」などの言葉については「かげ」を「光」と解釈して訳すことが妥当になります。
      
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  詩の題から、初句冒頭の「碧浪金波」が池の水面に立つ波のこととわかります。「金波」とあるのは夕陽の残照でしょう。

  第一句「三五」は掛け算して十五のこと。漢文で数字を扱う際によくある表現法です。陰暦の十五日の日付に用います。その夜の「三五夜」は十五夜すなわち望月の夜、またはその満月そのものを表す言葉ですが、「三五」だけでも同じ意味で用いることがあります。この詩もそれで、満月の夜の始まりの頃、夕暮れ時という意味になるでしょう。ここではまだ月は昇っていません。

  第二句「計会す」は計算を合わせるようにものごとをはからうことを言います。秋風が心得てはからって、きれいにあたりを吹き払った結果、月の出る時分には池の面(おもて)はあたかも鎮まった天空のようだ、といった趣でしょう。

  これで用意は調いました。この詩は天上にある満月をあえて地上の水面に映してその横溢する光を歌う詩なのです。
      
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                                 キンクロハジロ 22.11.10 東京都清瀬市

  第三句と第四句は律詩の作法上対句に作られる箇所です。あるいは霜の色に、あるいは蘆の花の色にたとえて、二句とも昇ってきた月の光の白さを強調します。明るい月の光は伝統的に白々した色と見るのが習わしです。

  「荷葉」は蓮の葉のこと。蓮は清浄の表象です。夏の詩には蓮の白い花(荷花)が月光の中に溶けるように見えるさまを詠むものがあります。

  第四句と第五句も対句に作られる箇所です。ここでは満月の圧倒的な明るさを詠んでいます。煌々と岸に照り返す光は池のほとりの松に居る鶴の白さに見まがうほど、また澄んだ池の深くまで射し透って、水中の藻にひそむ魚の数まで数えられるほどだ、と言います。

  二組の対句で池に満ちる月光の清らかな明るさを歌えば、それはそのままこの夜の美しさを導き語ります。澄んだ秋の夜のこの眺望には、天に満月地にそれを受けて輝く水面があるのです。何と光溢れる明るい夜の景色でしょう。引き合いに出されている瑤池(ようち)とは、崑崙山(こんろんさん)にあると言われ、仙女西王母が遊んだという中国の伝説上の池です(『穆天子伝』)。神仙の遊び場にもまさる清く明るいこの夜の美しさは宝玉でさえこれに及ばない、と詩は結んでいます。

    
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                                       コサギ 22.9.18 東京都清瀬市

  作者菅原淳茂(不詳〜926)は菅原道真(845〜903)の五男です。道真は醍醐天皇(当時16歳)を廃して娘婿である斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと企んでいると讒言され、謀反の罪で大宰府に流されました(901)。藤原氏による他氏排斥の事例として知られる事件です。年長の男子四人も父に連座して都を追われました。歴史物語『大鏡』は、この時讒言を信じた醍醐天皇の道真に対する憎しみは深く、一族を引き裂くように四人の息子をあえて別々の場所に流罪にしたと書いています。当時文章得業生であった淳茂は播磨(兵庫県)に流されました。

  一人だけ大宰府に伴った幼い息子は間もなく配所で亡くなり、その翌年には道真自身も幽閉の身のまま亡くなりました(903)。淳茂ら兄弟が赦されて都に帰ったのはその三年後(906)のことです。さらにその三年後のこと、道真排斥の中心人物であった藤原勢家の頭領 左大臣藤原時平が三十九歳の若さで急死しました(909)。早くも道真の祟りが囁かれ出し、都の人が注視する中で、その後も時平の娘で宇多天皇女御の褒子、息子の保忠(やすただ)、敦忠(あつただ)が次々早逝。東宮(保明親王)妃であった仁善子、その五歳の御子慶頼王まで夭折し、十数年の間に時平の子孫はほぼ絶えてしまいました。災厄があるたびに道真怨霊の噂は繰り返され、増幅してゆきました。延長八年(930)清涼殿に落雷があり、執務中の官僚が御所で炎を上げて焼死するという異様な事件が起きました。それがかつて道真更迭の謀略に関わった人々であったことで醍醐天皇はいよいよ恐怖し、やがて発病して譲位するに至りました(930)。

    
0910ゴイサギ4594.jpg                                      ゴイサギ 23.9.10 東京都清瀬市

  右大臣の子息から一夜にして罪人に堕ちた青年期。そして都に戻った淳茂の後半生を覆ったのは父道真の祟りの噂、菅原一門に寄せられる同情と恐れの入り交じった世間の関心だったでしょう。この詩も、そういう都にあって詠まれたある美しい夜なのです。

  復権した淳茂はやがて大学頭になり、文章博士となって、学問の家菅原の人らしい生涯を送ります。醍醐天皇崩御の後、朝廷がついに鎮魂のために御所近く北野の杜に道真を祀ったのは道真が大宰府で客死して三十年になる正暦四年(933)、淳茂も死去してからのことでした。淳茂は終生、いたましい、しかし恐ろしい父の子として、愛慕する父のためにおそらく心傷めて生きたのです。
       
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