2011年3月26日

第12回 非夢思中數數尋:空海の留別 心の中できっと会う

第12回【目次】         
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    * 漢詩
    * みやとひたち




      
      
23辛夷323.jpg                                      辛夷 23.3.23 東京都清瀬市


    一生一別難再見
    非夢思中數數尋

     一生 一たび別るれば 再(ふたた)びは見(あ)ひ難し
     夢に非(あら)ず 思中(しちゆう)に数々(しばしば)尋ねん 
                            「経国集」巻十梵門

  詩は空海[佐伯氏 幼名真魚(まを)774〜835]の七言絶句「留別靑龍寺義操阿闍梨[青龍寺の義操阿闍梨に留別(りうべつ)す]」の後半二句です。文例のページに詩の全部を挙げてあります。

      
23辛夷ヒヨドリ3233.jpg                            辛夷の花を食べるヒヨドリ 23.3.23 東京都清瀬市

  空海は延暦23年(804)、桓武天皇の御代に、第18次の遣唐使船で国の留学僧として唐に渡りました。同じ時期に最澄(767〜822)も唐に入っています。この時、最澄はすでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人であり、仏教世界に高い地位を得ていましたが、三十一歳の空海はまだ無名の一沙門でした。

  「留別靑龍寺義操阿闍梨」はその帰国に際して書かれた詩です。「留別」は旅立つ人が見送る人に別れの気持ちを込めて詩を贈ること、またはその詩を意味します。中国の詩の一カテゴリーですが、我が国で最も早くこの言葉を詩に用いたのが空海です。

  義操阿闍梨は親しい修行仲間であったかと想像されますが、調べはついておりません(文例に註を付けました)。

       この一生、ひとたびお別れすれば、
           もう二度とはお目にかかることはできないでしょう。
       こののちは、夢の中ではなく、心の中で、
                しばしばあなたをお尋ねするでしょう。

  長安の知人に今別れれば、生涯会うことはないと思うのは当時の常識でしょう。もう二度とは会えないものとして、これからは心の中のあなたと会います、という意志を別れの挨拶にしたのです。

      
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                                         23.3.23 東京都清瀬市

  「非夢思中」は何かしら仏教的な意味合いのある表現なのかもしれません。それを度外視して読んでも、現実の世界ではもう会うことがないと思う義操阿闍梨に、私の心にいるあなたに「これからも何度も意志的に会うのだ」という空海の積極的な気持ちが分かる言葉です。

      
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  行き来が容易ではなかった当時と現代とでは事情が違うようでいて、人と人との関わり方は、もしかすると、根本的には変わりがないかも知れません。
  いつも傍にいて姿を見、直接手を触れ、声を聴きながら付き合える人は、知っている人間の中のごくわずかです。それは好き嫌いや気持ちの親疎に関わらない「縁」によるものです。大好きな人でも近くにはいないということは何ら珍しいことではありません。
  距離だけではありません、幽明を隔ててもそれは同じように思われます。

  恩師の大野晋先生はその最晩年まで、何かあるごとに「橋本(進吉)先生だったらどうおっしゃるか」と自問なさるのが常でした。日本語と南インド・タミル地方の言語との関係を研究なさるようになってから、凄まじい批判の中で、「(本居)宣長先生だったらこの点は絶対分かってくれる」と悔しそうに仰ることもありました。人の命とは不思議なもの、本人の一生よりも人の記憶の中に長い命があるのだと知りました。

      
24花桃324.jpg                                      花桃 23.3.24 東京都清瀬市

  そこには居ない、心の中の人と向き合って、時には喜びを報告し、時には辛い心を訴え、それで自分を慰めたり、かつ自分を正したり、我に返り、みずから励まして、私たちは心を満たしております。命は必ず終わりますが、生きている私たちの中には、今はもういなくなった人も、私たちと同じように生きています。

      
23鴨2323.jpg                                         23.3.23 東京都清瀬市



  遣唐使船は四隻編成でしたので、通称「四隻の船」また「四つの船」と呼ばれました。第18次の四隻のうち、唐に行き着いたのは空海が乗船した第一船と最澄の乗った第二船だけで、半分は遭難しています。また、入唐求法還学生(にっとうぐほうげんがくしょう)として渡航した最澄が二年で帰国できる短期留学生であったのに対して、空海は普通の留学僧でしたから、本来の滞在期間は二十年、帰国は五十歳を過ぎる予定でした。当時の留学は、無事に往来しおおせたとしても、一生を費やしかねない一大事業だったのです。その始まりが朝貢であったとは言え、古代の日本人は高い学問知識に憧れ、中国を学ぶことが国の建設に寄与するものとも信じて、西暦600年に遣隋使が送られてから894年に菅原道真の提言で遣唐使が廃止されるまでの約三百年の間、命を賭し生涯を賭けるこの計画を幾たびも実行したのです。

      
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  唐に渡って次の年805年5月、空海はこの詩の題にある長安の青龍寺に恵果(けいか 746〜806)を尋ねて師事します。恵果は代宗・徳宗・順宗と三代の皇帝に師と仰がれた高僧です。それから約半年、修行は凄まじいばかりの勢いで進み、密教の枢要が伝授されました。その頃には空海の力量は周囲にも認められたものらしく(後に空海は恵果の六大弟子の一人に数えられます)、同年12月、恵果和尚が入寂(逝去)すると、翌元和元年(806、延暦25年)1月17日、空海はすべての弟子を代表して恵果師を顕彰する碑文を書いています。

   若(も)しは尊、若しは卑、虚しく往きて実(み)ちて帰る。
   近きより、遠きより、光を尋ねて集会することを得たり。
                    (一部抜粋)「性霊集」

  身分の高い者も、低い者も、みなが、空っぽで出掛けてゆき、
  (恵果師に会って)満ち足りて帰った。
  近いところから、遠いところから、あらゆるところから、
  光を求めるように恵果師を慕い、そのもとに集まるようになった。

  さらに師を説明して、恵果という人は、貧しい者が来れば物やお金を惜しみなく与え、愚かな者には法を説き教えた、財産を蓄えないことを旨とし、信じる仏法をひたすら伝えることにだけに努めた人であった、と語ります。

      
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  恵果和尚入滅の翌年806年10月、空海は帰国しました。時は平城天皇の御代に移っていました。当初の予定とは違ってわずか二年の留学でしたが、まさに「虚しく往きて実ちて帰る」という帰国でしたでしょう。異国で出会い、彼を満たした師は、おそらく空海の心に、義操阿闍梨や大切な人びとと同じように、空海が死ぬまでともに生きていたのでしょう。

      
18河津桜3183.jpg                                     河津桜 23.3.18 東京都清瀬市

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