2011年12月22日

第43回 交友:異代の交はり 忘年の友


第43回【目次】         
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    * 漢詩
  



      
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     蕭会稽之過古廟 託締異代之交
     張僕射之重新才 推為忘年之友

       蕭会稽(しょうかいけい)が古廟(こびょう)を過(よ)きし、
       託(つ)けて異代(いたい)の交(まじわ)りを締(むす)べり。
       張僕射(ちょうぼくや)が新才(しんさい)を重(おも)くせし、
       推(お)して忘年(ぼうねん)の友(とも)とせり。

      ※( )内の読み方表記は現代仮名遣い。

    
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  今回は大江朝綱(おおえのあさつな 886〜958)の「上州大王陪臨水閣詩序(上州大王の臨水閣に陪する詩の序)」から、その一部を御紹介します。「上州大王」とは醍醐天皇第四皇子重明親王(しげあきらしんのう 906〜945)の別名です。文例のページには文中の語注を加えました。

     
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  始めの一文、蕭会稽(しょうかいけい)が古廟(こびょう)を通り過ぎた時、礼して異代(いたい)の交りを結んだ、というのは、南北朝時代(紀元5世紀から6世紀に跨る時代)の南朝最後の王朝である陳に仕えた蕭允(しょういん)が、会稽郡の高官(丞:じょう)となって赴任する時、途中延陵(えんりょう)の地で春秋時代の呉の季礼(きれい)の廟を通り過ぎる時、これに礼拝して時代を超えた交わりを結んだという故事(『陳書』列伝第十五蕭允伝)に触れたものです。

  呉の季礼とは清廉賢哲をもって知られた伝説的な人物です。春秋時代といえば紀元前770年からのおよそ360年ほどの期間。孔子が生きたのはその中頃の時期、呉はその後期の国名で、紀元前6世紀から紀元前5世紀中盤までの頃、現在の蘇州辺りを支配した国でした。「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」など、今日でもお馴染みの成語ができたあの時代です。

      
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  陳の重臣であった蕭允は、どれだけ勧められても兄を越えて王位に就くことを拒み通したという呉の季礼の人となりを敬慕して、生きた時代はおよそ九百年も離れていましたが、時代を隔てて交友を結んだのだというのです。

  もちろん季礼にすれば知ったことではないのですが、あとからこのようにして心を寄せる者にとっては幽明を分けていることなどはさほど問題ではなく、とすれば、どれだけ時代が隔たろうと親近を抱くのに何の支障もないのです。

      
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  後半の一文も同じく故事に基づく内容です。尚書僕射(しょうしょぼくや:という役職)であった張纘(ちょうさん)らは、官も高く年長でしたが、年少で才名のあった江総(こうそう)を推重して、「忘年の友」すなわち長幼を忘れた友人とした、と史書にあります(『陳書』列伝第二十一江総伝)。「忘年の友」とは長幼の序を無視し、年少者を同等に親しく扱って交わる交友のことを言うようです。

     
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  話題の江総は名門の出身でしたが七才の時に父を亡くし、母方の親族に身を寄せて長じました。幼少から学問を好み才能に恵まれた江総は、十八才で初めて出仕すると間もなく梁の武帝に評価されてその詩才がもてはやされるようになり、当時の重臣や年長の学者たちから「忘年の友」として遇されるようになったと言います。宮廷詩人として陳の朝廷で活躍しました。親友の遺児、のちに初唐三大家に数えられる書家 欧陽詢を後見して傅育した人でもあります。しかし政治家としての評価は低く、陳が隋に滅ぼされるに到ってはむしろ亡国の臣とみなされています。一人の人間にもいろいろな顔があり、それぞれに評価があるのです。

      
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  大江朝綱の「上州大王陪臨水閣詩序」のこの部分は、時を越え、立場を越えて結ばれる人と人との交わりを象徴的な話題を二つ取り上げて述べているものと分かります。

  人の交友もさまざまですが、心を寄せ、あるいは心を開いてつきあう相手は、必ずしも今同じ所に居て当たり前に顔を合わせられる範囲に居る人ばかりではありません。ひとりの人間が生きている時間は実に短く、また生きている時も、たまたま生まれ合わせたこの世の片隅で、狭く偏った場所(または立場)に居るに過ぎません。しかし、心のつながりとは限られた時間や空間に縛られることもなく、もっと自由なものです。ことに書物を紐解けば、ありがたいことに、私たちは時空を越えた遠い世界にも深く親近を感じる人に出会うことがあるのです。俗世の暮らしが一見ぽつんと孤独なようであっても、忘年の友や見ぬ世の友を得ている者は幸福でしょう。

      
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                                          23.12.25 東京都清瀬市
   
  さて、「上州大王陪臨水閣詩序」は詩の序文であってこれ自身は詩ではありませんが、このたび御紹介した部分は、11世紀初頭の藤原公任の『和漢朗詠集』(下巻「交友」の部)に採られていることなどからは、王朝の文人に好まれて朗唱されてきた一節であったことが偲ばれます。またその後、11世紀後半に、その時期までの和製漢文の精華を集めたとされる『本朝文粋』にも収められました。この序文を持つ詩そのものが歌おうとした内容とはまた別に、この序に表された時代・世代を隔てた交友という言葉が、発想が、平安朝の知識人の心に気持ちよく受け容れられた結果に違いありません。
  『和漢朗詠集』や『本朝文粋』で作者名を「後江相公(のちのごうしょうこう:「江(ごう)」は大江氏のこと)」とするのは、朝綱の祖父に当たる漢学者大江音人(おおえのおとんど)を「江相公」と尊称するのに対して、同じく学者の朝綱を讃える呼称です。

      
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