2011年10月 7日

第35回 月舟霧渚浮:月の舟星の林 宇宙の歌

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    * 漢詩
    * みやとひたち




      
2211106810.jpg                                          22.11.10 東京都清瀬市

     月舟移霧渚
     楓楫泛霞濱
     臺上澄流耀
     酒中沈去輪
     水下斜陰碎
     樹落秋光新
     獨以星間鏡
     還浮雲漢津

       月舟(げっしゅう)霧渚(むしょ)に移り
       楓楫(ふうしゅう)霞浜(かひん)に泛(うか)ぶ
       臺上(だいじょう)流耀(りゅうよう)澄み
       酒中 去輪(きょりん)沈む
       水下(くだ)り 斜陰(しゃいん)砕け
       樹(き)落ち 秋光(しゅうこう)新たなり
       独(ひと)り星間(せいかん)の鏡を以て
       還(ま)た雲漢(うんかん)の津(しん)に浮かぶ

       ※( )内の表記は現代仮名遣い


    
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  詩は第42代文武天皇(683〜707)の五言律詩「詠月(月を詠ず)」です。

  夜空を水面に見立て、渡る月を舟に見立てます。

   月の舟は霧のたちこめる渚を移りゆき、
   楓の楫(かじ)持つその舟は、もやにかすむ浜に浮かんでいる。

  第一句と二句は同じ場面を別の表現で繰り返しています。この楓は楓香樹という香木です。秋の紅葉でなじみ深いあの楓(かえで)ではありません。芳しい月の舟なのです。

  第三句から第六句までは月の光を受ける地上を詠みます。

   臺(うてな)の上には流れる月の耀(ひかり)が澄みわたり、
   酒杯の中には移り去る月輪が沈んでいる。
   天上の川水が流れるにつれ(=月が空を渡ると)、月に照らされる
   斜めの陰は砕けて形を変え、
   木々は葉を落としていて、すっきりと透る秋の光はさわやかである。

  最後の聯(れん 二句)はまた天上に還って月を詠みます。

   月はひとり星々の間の鏡となって、天の川の渡し場に浮かんでいる。

  明るく澄んだ光を表して、月を鏡に喩えるのは、詩歌には珍しくありません。「雲漢」は銀河、また天の川の意味で用いられます。
  漢詩の表現の伝統に則っておおらかに天空を詠んだところに、秋の気の爽やかさが漂う、美しい夜の詩です。

    
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  夜空を渡る月を「月舟」と表すのは中国の詩にあり、我が国の詩にも踏襲されました。また、夜空に見える数多くの星を言うのに漢詩には「星林」という表現があります。秋の澄んだ夜空に燦めく無数の星の林、渡る月の舟、季節と相俟って、いずれも実に詩情ゆたかな見立てです。この「星林」「月舟」を万葉の詩人はそのまま「星の林」「月の舟」という言葉に解いて和歌にも詠みました。

  天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
  (あめのうみに くものなみたち
   つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ)
                  『万葉集』巻七1068

  文武天皇の「詠月」詩にも通じる趣きが見えます。これは『柿本人麻呂家集』にあった歌であるという説明付きで『万葉集』巻七の巻頭に置かれた歌です。とすると、実際にこの二作は同じ時代の、それもきわめて近い時期に詠まれたものと考えられます。
  人麻呂の歌の題は「詠天(あめをよむ)」。この一首だけで、次には「詠月(つきをよむ)」と題する歌が十八首も並ぶことを見れば、この歌は明らかに月の歌とは区別され、天空を、宇宙を詠む歌と扱われています。

    
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  文武天皇(683〜707)は父草壁皇子の早逝などの事情で十五歳の若さで即位することになり、祖母に当たる先代持統天皇が、日本史上はじめて太上天皇と名乗ってその後見にあたりました。『万葉集』第二期の歌人を代表する柿本人麻呂は、その先代持統朝に活躍した歌人です。

    

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                                            23.10.8 東京都清瀬市

  柿本人麻呂とはまったく謎に包まれた人物です。あれだけ多くの歌を『万葉集』に残しながら、生没年はおろかプロフィールがまったく覗われません。正史に記述がないところなどの理由から、契沖や賀茂真淵など近世の国学者は六位以下の卑官であったと推定してきました。また律令の定めで死亡を記述する際に三位以上は「薨」、四位五位は「卒」、六位以下は「死」と表しましたが、人麻呂は「死」で扱われていたことなども、その説を補強するようです。

  昭和になって、柿本人麻呂は実は高官であったのが政争に敗れて刑死し、各種記録類から痕跡を消されたのであるというセンセーショナルな説が提示され(『水底の歌-柿本人麻呂論』梅原猛)、推理小説などにもなりました。依然として謎はまったく解明されておりません。

    
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                                            23.10.8 東京都清瀬市

  ただ、明らかなことは、この謎めいた詩人は持統天皇のもと、律令国家建設の応援歌とも言うべき折々の歌を詠んで、時の政権を助けて働いたということです。賀茂真淵の説に拠れば人麻呂は持統天皇の皇子草壁皇子(文武天皇の父)の舎人であったと言い、天皇家に近しく仕えたことが推定されています。これら先学の研究から、はっきりとは分からないながら、ともかく人麻呂の生きていたあたりは推定され、そこから人麻呂の歌の方が古く、「詠月」詩はその後に詠まれたものと決めることは出来そうです。

  祖母持統天皇の庇護のもとに成人した文武天皇は、その幼少期、人麻呂との間に詩文に影響を受けるだけの交流を持てたのかもしれないと空想します。宮中との近さを言う俗説には、人麻呂は持統天皇の恋人であったとも伝わります。いつの日か、この柿本人麻呂という人の全容が明らかになる時がくれば、数々のいたましい推論や不埒な噂の真贋も定まるのでしょう。  

    
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