第60回さみだれ:五月雨 梅雨 夏は来ぬ
第60回【目次】
* 漢詩
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
青梅 21.6.2 東京都清瀬市
1 歌のことば
川ではカルガモの雛がトレーニングを重ねています。川近くの高い木にかけたカラスの巣(連載第56回「おほかた春は」に掲載)では、今カラスの雛が二羽育っています。親鳥はたしかに「カーワイー、カーワイー」と鳴いています。翡翠(カワセミ)も幼鳥の姿が見受けられ、緑が濃さを増す中、野鳥の世界は新しい世代の盛んな生成の勢いに満ちています。
梅雨に入りました。古典で言う「さみだれ(五月雨)」はこの梅雨の雨を指します。
農業国であるわが国では、古来この雨は田植えの雨でした。豊かな収穫のまず第一歩はこの雨の中から始まると感じられてはいたのです。温かい雨には作物の豊饒のイメージが重なりますね。
さみだれのそそぐ山田に
賤の女[しづのめ]が裳裾[もすそ]ぬらして
玉苗[たまなへ]植うる夏は来ぬ
佐佐木信綱「夏は来ぬ」第2聯
懐かしい唱歌「夏は来ぬ」は全部で五聯からなり、全体を通して初夏の田園風景のさまざまを綴り、第五聯の詞はそのまとめのような造りになっています。詞は季節の進行をゆるやかに辿りますが、今はちょうど第二聯の時期に至ったところでしょうか。(連載第10回「夏は来ぬ」参照)
詞中「賤の女(しづのめ)」とある言葉はのちに「早乙女(さをとめ)」に改変されました。唱歌や童謡など、子供の歌が時代とともに形を変えることは珍しくありません。以前「春の小川」の御紹介をした時(連載第30回「春はかすみて」)にもそのことに触れました。子供にわかりやすい言葉に言い換えようとするものですが、私はおおむねそれには反対です。しかし「夏は来ぬ」において、「賤の女」を「早乙女」に変えたことは例外的によい変更だったと思います。
21.6.14 東京都清瀬市
2 藤原定家の書写姿勢
私たちを取り巻く言葉が時代とともに変わってゆくのは当然のことです。
鎌倉初期の学者歌人藤原定家は、平安以来の貴族文化が残した膨大な古典作品を継承することに超人的な力を発揮した人です。物語や歌集、日記その他の作品を、その時集められるだけ集めて、内容を検分し、整理し、人も使って書写すべきものは書写しました。「源氏物語」五十四帖がほとんど欠落無いと思われる姿で今日に伝えられたのも定家の尽力に拠ります。奇矯な人であったというさまざまの説話をいかにもと思わせる独特の筆跡ですが、日本の古典を愛する人々は定家に感謝しないわけにはゆきません。
定家本「更級日記」(釈文は末尾)
その定家が書写したいわゆる定家本『土佐日記』は、平安時代の作者紀貫之が書いた原本(935年成立)と言葉が一部違っていることが知られています。間違えたのではありません。わざと書き換えたのです。紀貫之の時代から二百数十年経った定家の時代には、同じ貴族の階層でも言葉や表記の習慣はオリジナルの『土佐日記』の様相とは変わっていたからです。作品冒頭の有名な改変部分を御紹介しましょう。
原本: 男もすなる日記といふものを 女もしてみむとて するなり。
定家本:男もすといふ日記というものを 女もしてみむとて するなり。
原本では一文に「なり」という助動詞が二つ出てきます。形は同じですが別の単語です。文末にある「なり」は断定(...デアル)を表すわかりやすい助動詞です。一方、「男もすなる」の「なる(「なり」の連体形)」は伝聞の意味を表す助動詞で、ここでは「男もする(書く)"という"」という意味になります。定家本ではここを、その助動詞を使わずに、ほとんど現代語と同じ形の「男もすといふ」に変えています。この時代すでに伝聞の助動詞「なり」はわかりにくくなっていたのでしょう。定家は単なるコレクターではなく校訂者の働きをもって、平安の遺産をたしかに後世に伝えようとしていたことがわかります。
3 早乙女が裳裾濡らして
それでも、内容を伝えるとともに形も継承出来ればなおさらよいのは間違いありません。特に韻文は言葉そのものが神髄です。内容を誤りなく伝えることは大事なことですが、わかりにくいから取り替えるというのではなく、歌い継いで行く歌で昔の言葉を覚えればすむことです。蔵の奥に埋もれがちの書物とは違って、曲が付いて歌われる歌は、その点まだ有利な条件を備えています。ですから、唱歌や童謡の言葉はなるべくそのままで伝えたいと思います。父祖が歌った形を後代にも伝えてゆける方が幸せだと思います。
21.6.14 東京都清瀬市
しかし、「夏は来ぬ」の「賤の女(しづのめ)」は、ちょっと事情が違います。
「賤の女(しづのめ)」また「山賤(やまがつ):山人、野卑な田舎者」などといった表現は、本来貴族言葉です。貴族社会の成員からそれ以外を、無意識のうちにも侮蔑して眺めた時の言い方です。卑下して用いる場合以外、貴族階層以外の者には使える言葉ではなかったはずです。平安時代の単語を雅語の文化として受け継ぐとしたら、これらももちろんその文化に入るものですが、社会が変わり、貴族と非貴族という枠で物事を扱うことがまったく成立しなくなって来ますと、階層に属するこうした単語は本来のニュアンスを活かして使うことはもはや出来ません。佐佐木信綱が平安時代風の言葉で農婦を言うつもりで「賤の女」と呼んでも、これが作られた明治29年当時も、擬古的表現という以上の表現にはなっていなかったのです。「賤の女」から「早乙女」に変わって、かえって歌の感触は私たちの自然な心に沿うようになったと思われます。
「さつき」「さなえ」「さをとめ」などの「さ」は、どうやら稲作に関わる語であるらしいと言われていますが、起源の遡りきれない言葉です。「さをとめ」は「をとめ」とあるように、始めは若い娘に限っていたのではないかと思われますが、次第に田植えをする女性を広く表すようになりました。
雨に降り込められているこの時期、実は一年で最も昼の時間が長くなる日、夏至(げし)を迎えます。二十四節気の一つですが、現行暦の今年のカレンダーに重ねれば、6月の21日がその日です。もちろんまだ梅雨の最中でしょうが、晴れてさえいれば、最も光の多い明るい時期になっているのです。
21.6.3 東京都清瀬市
図版 定家本「更級日記」釈文
あづまぢのみちのはてよりも猶お
くつかたにおいゝでたる人、いか許
かはあやしかりけむを、いかにおも
ひはじめける事にか、世(の)中に物
がたりといふ物のあんなるを、いかで
見ばやとおもひつゝ、つれゝゝ(つれづれ)なるひる
ま、よひゐなどに、あねまゝはゝなど
やうの人ゝゝ(人々)の、その物がたり、かのものが
たり、ひかる源氏のあるやうなど
* 漢詩
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
青梅 21.6.2 東京都清瀬市
1 歌のことば
川ではカルガモの雛がトレーニングを重ねています。川近くの高い木にかけたカラスの巣(連載第56回「おほかた春は」に掲載)では、今カラスの雛が二羽育っています。親鳥はたしかに「カーワイー、カーワイー」と鳴いています。翡翠(カワセミ)も幼鳥の姿が見受けられ、緑が濃さを増す中、野鳥の世界は新しい世代の盛んな生成の勢いに満ちています。
梅雨に入りました。古典で言う「さみだれ(五月雨)」はこの梅雨の雨を指します。
農業国であるわが国では、古来この雨は田植えの雨でした。豊かな収穫のまず第一歩はこの雨の中から始まると感じられてはいたのです。温かい雨には作物の豊饒のイメージが重なりますね。
さみだれのそそぐ山田に
賤の女[しづのめ]が裳裾[もすそ]ぬらして
玉苗[たまなへ]植うる夏は来ぬ
佐佐木信綱「夏は来ぬ」第2聯
懐かしい唱歌「夏は来ぬ」は全部で五聯からなり、全体を通して初夏の田園風景のさまざまを綴り、第五聯の詞はそのまとめのような造りになっています。詞は季節の進行をゆるやかに辿りますが、今はちょうど第二聯の時期に至ったところでしょうか。(連載第10回「夏は来ぬ」参照)
詞中「賤の女(しづのめ)」とある言葉はのちに「早乙女(さをとめ)」に改変されました。唱歌や童謡など、子供の歌が時代とともに形を変えることは珍しくありません。以前「春の小川」の御紹介をした時(連載第30回「春はかすみて」)にもそのことに触れました。子供にわかりやすい言葉に言い換えようとするものですが、私はおおむねそれには反対です。しかし「夏は来ぬ」において、「賤の女」を「早乙女」に変えたことは例外的によい変更だったと思います。
21.6.14 東京都清瀬市
2 藤原定家の書写姿勢
私たちを取り巻く言葉が時代とともに変わってゆくのは当然のことです。
鎌倉初期の学者歌人藤原定家は、平安以来の貴族文化が残した膨大な古典作品を継承することに超人的な力を発揮した人です。物語や歌集、日記その他の作品を、その時集められるだけ集めて、内容を検分し、整理し、人も使って書写すべきものは書写しました。「源氏物語」五十四帖がほとんど欠落無いと思われる姿で今日に伝えられたのも定家の尽力に拠ります。奇矯な人であったというさまざまの説話をいかにもと思わせる独特の筆跡ですが、日本の古典を愛する人々は定家に感謝しないわけにはゆきません。
定家本「更級日記」(釈文は末尾)
その定家が書写したいわゆる定家本『土佐日記』は、平安時代の作者紀貫之が書いた原本(935年成立)と言葉が一部違っていることが知られています。間違えたのではありません。わざと書き換えたのです。紀貫之の時代から二百数十年経った定家の時代には、同じ貴族の階層でも言葉や表記の習慣はオリジナルの『土佐日記』の様相とは変わっていたからです。作品冒頭の有名な改変部分を御紹介しましょう。
原本: 男もすなる日記といふものを 女もしてみむとて するなり。
定家本:男もすといふ日記というものを 女もしてみむとて するなり。
原本では一文に「なり」という助動詞が二つ出てきます。形は同じですが別の単語です。文末にある「なり」は断定(...デアル)を表すわかりやすい助動詞です。一方、「男もすなる」の「なる(「なり」の連体形)」は伝聞の意味を表す助動詞で、ここでは「男もする(書く)"という"」という意味になります。定家本ではここを、その助動詞を使わずに、ほとんど現代語と同じ形の「男もすといふ」に変えています。この時代すでに伝聞の助動詞「なり」はわかりにくくなっていたのでしょう。定家は単なるコレクターではなく校訂者の働きをもって、平安の遺産をたしかに後世に伝えようとしていたことがわかります。
3 早乙女が裳裾濡らして
それでも、内容を伝えるとともに形も継承出来ればなおさらよいのは間違いありません。特に韻文は言葉そのものが神髄です。内容を誤りなく伝えることは大事なことですが、わかりにくいから取り替えるというのではなく、歌い継いで行く歌で昔の言葉を覚えればすむことです。蔵の奥に埋もれがちの書物とは違って、曲が付いて歌われる歌は、その点まだ有利な条件を備えています。ですから、唱歌や童謡の言葉はなるべくそのままで伝えたいと思います。父祖が歌った形を後代にも伝えてゆける方が幸せだと思います。
21.6.14 東京都清瀬市
しかし、「夏は来ぬ」の「賤の女(しづのめ)」は、ちょっと事情が違います。
「賤の女(しづのめ)」また「山賤(やまがつ):山人、野卑な田舎者」などといった表現は、本来貴族言葉です。貴族社会の成員からそれ以外を、無意識のうちにも侮蔑して眺めた時の言い方です。卑下して用いる場合以外、貴族階層以外の者には使える言葉ではなかったはずです。平安時代の単語を雅語の文化として受け継ぐとしたら、これらももちろんその文化に入るものですが、社会が変わり、貴族と非貴族という枠で物事を扱うことがまったく成立しなくなって来ますと、階層に属するこうした単語は本来のニュアンスを活かして使うことはもはや出来ません。佐佐木信綱が平安時代風の言葉で農婦を言うつもりで「賤の女」と呼んでも、これが作られた明治29年当時も、擬古的表現という以上の表現にはなっていなかったのです。「賤の女」から「早乙女」に変わって、かえって歌の感触は私たちの自然な心に沿うようになったと思われます。
「さつき」「さなえ」「さをとめ」などの「さ」は、どうやら稲作に関わる語であるらしいと言われていますが、起源の遡りきれない言葉です。「さをとめ」は「をとめ」とあるように、始めは若い娘に限っていたのではないかと思われますが、次第に田植えをする女性を広く表すようになりました。
雨に降り込められているこの時期、実は一年で最も昼の時間が長くなる日、夏至(げし)を迎えます。二十四節気の一つですが、現行暦の今年のカレンダーに重ねれば、6月の21日がその日です。もちろんまだ梅雨の最中でしょうが、晴れてさえいれば、最も光の多い明るい時期になっているのです。
21.6.3 東京都清瀬市
図版 定家本「更級日記」釈文
あづまぢのみちのはてよりも猶お
くつかたにおいゝでたる人、いか許
かはあやしかりけむを、いかにおも
ひはじめける事にか、世(の)中に物
がたりといふ物のあんなるを、いかで
見ばやとおもひつゝ、つれゝゝ(つれづれ)なるひる
ま、よひゐなどに、あねまゝはゝなど
やうの人ゝゝ(人々)の、その物がたり、かのものが
たり、ひかる源氏のあるやうなど
【文例】 漢詩・漢文へ