第81回 野の春:御歌所 旧派和歌 摘み草 紫花菜 なでしこ
第81回【目次】
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
22.5.2 東京都清瀬市
1 目さむばかりに
22.5.1 東京都清瀬市
庭さくら にほひし春はゆめとなりて 目さむばかりになでしこの咲く
季節が変わりました。天候の悪かった先月と比べれば安定した日差しに恵まれて、新緑が輝いています。どの花よりも緑が美しい時期、野には緑に寄り添う優しい初夏の草花が咲き拡がっています。
クレソン 22.5.5 東京都清瀬市
22.5.5 東京都清瀬市
冒頭の歌は幕末生まれの国学者阪正臣(1855:安政2年3月23日〜- 1931:昭和6年8月25日)の作です。尾張国(愛知県)知多郡の人阪正臣は、三河国砥鹿神社、鎌倉宮、伊勢神宮の神官を歴任したのち、女子学習院の教授を経て、明治30年には御歌所寄人(よりうど)になり、古今集以来の伝統和歌の継承を担って終生をその業に捧げました。
22.4.29 東京都清瀬市
御歌所は明治天皇の御意向による和歌の役所ですが、この部署は単に歌の上手を集めた場所ではなく、和歌に代表される日本の伝統文化を広く担う部署であったようです。ここに集う人々を眺めてみると、どの人も書・画・文学研究などの多方面に活躍の跡が残っています。
22.5.7 東京都清瀬市
高崎正風(たかさきまさかぜ)は、明治27(1894)年に著された与謝野鉄幹の短歌論「亡国の音」や、明治31年(1898)に正岡子規が発表してその後の和歌の流れを決定的に変えた「歌詠みに与ふる書」で、いわゆる旧派和歌の代表として辛辣な批判の対象となった人です。伝統的な作風の和歌のほかに、古筆の調査研究に業績を残しました。和歌の刷新を唱えて伝統和歌を批判しようとすると、先ずこの人が敵の首魁に見えたのは、明治を遠く下った現代から眺めるとなるほどと納得されます。歌の古風であることのほかに、盛んな古歌古典研究が目立ったのです。この人のあとは大口周魚(おおぐちしゅうぎょ)がその新派の標的でした。
本居豊穎(もとおりとよかい)は本居宣長の曾孫にあたる国学者で東京女子師範、東京帝国大学で教鞭を執り、宮中に進講の御用の多い人でした。ほか中村秋香(なかむらあきか)、佐佐木信綱(ささきのぶつな)、池邊義象(いけべよしかた)、武島羽衣(たけしまはごろも)といった人々も、分かりやすく言えば職業は大学教授で、それぞれに後世に参照される優れた文学研究があります。
22.4.29 東京都清瀬市
22.5.9 東京都清瀬市
御歌所は伝統和歌を他の伝統文化ともども支え、さらに盛んにすることを目指した部署であったはずですが、明治の中期以降の和歌改革といわれる文学運動の波の中で古来の歌を守ることが結局できませんでした。明治中期以降は「明星」に代表される新しい歌、個人の感情をエキセントリックなまでに訴える、多弁な独り言が取って代わって今日に至ります。伝統和歌は傍流になったのではありません。ほぼ死滅したのです。人事に関係のない、身の回りの風や光や、小さな足許の花に季節を歌うような、さりげない自然の美しさは歌われにくくなりました。
22.5.4 東京都清瀬市
22.4.29 東京都清瀬市
2 夢となりて
遡って明治のその時、挑発的な新派の論調に反駁せずに、御歌所の人々は超然とそれぞれの古典研究に励みました。新派のあけすけな独り言のような歌の言葉づかいは、それまでとあまりに違いすぎて簡単には比較の対象になりません。もしかすると取るに足らないことと見くびっていたのかも知れません。しかし、その後の和歌史の流れを見れば、論戦をした方がよかったと思えてなりません。ひとりひとりを見てみれば、弁の立つ与謝野鉄幹に仮に妻が加勢したとしても、当時の御歌所の知性は群を抜いていました。今となっては誰も論じない伝統和歌の本質とその豊かさを、当時の碩学がどう語ったかは是非聞いてみたいところです。そもそも、まったく異次元の発想である新派和歌の立場から挑まれでもしなければ、伝統和歌を改めて語ると言うような機会は無かったはずなのです。
22.5.4 東京都清瀬市
もっとも、反論しても大勢は変わらなかったかも知れません。新派和歌一色になったのは、これが分かりやすかったからです。誤解を恐れず言えば、新派和歌は伝統和歌より低い水準で作ることができるから、その歌は大衆化できたのです。しかし、ひとりの与謝野晶子はすぐれていますが、この世の歌が皆与謝野晶子の亜流になってよいはずはなかった。論を闘わせて、伝統和歌の立場を鮮明にしておいてくれれば、革命的な熱の冷めたあとに、改めて全体を見直すそのよすがになったであろうに、伝統和歌も、主流でないまでももっと普通に継承されて来たであろうに、実に残念です。
江戸までを継承できなかった明治という時代は、日本文化を考える上で、今後あらゆる角度から検証されることになるでしょう。伝統和歌が途絶えたのも、大きな流れとしては、この明治の文化動乱の渦の中のことでした。
御歌所の人々の作品を比較的多く所蔵しているのが、千葉県成田市にある成田山書道美術館です。天台宗の古刹成田山新勝寺の境内にある美術館です。新緑の中、その中に眠る、今や夢となったような美しい昔の歌を尋ねるのも一興です。
このたびは、野の春、小さな草花の歌を中心に集めて御紹介します。
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
22.5.2 東京都清瀬市
1 目さむばかりに
22.5.1 東京都清瀬市
庭さくら にほひし春はゆめとなりて 目さむばかりになでしこの咲く
季節が変わりました。天候の悪かった先月と比べれば安定した日差しに恵まれて、新緑が輝いています。どの花よりも緑が美しい時期、野には緑に寄り添う優しい初夏の草花が咲き拡がっています。
クレソン 22.5.5 東京都清瀬市
22.5.5 東京都清瀬市
冒頭の歌は幕末生まれの国学者阪正臣(1855:安政2年3月23日〜- 1931:昭和6年8月25日)の作です。尾張国(愛知県)知多郡の人阪正臣は、三河国砥鹿神社、鎌倉宮、伊勢神宮の神官を歴任したのち、女子学習院の教授を経て、明治30年には御歌所寄人(よりうど)になり、古今集以来の伝統和歌の継承を担って終生をその業に捧げました。
22.4.29 東京都清瀬市
御歌所は明治天皇の御意向による和歌の役所ですが、この部署は単に歌の上手を集めた場所ではなく、和歌に代表される日本の伝統文化を広く担う部署であったようです。ここに集う人々を眺めてみると、どの人も書・画・文学研究などの多方面に活躍の跡が残っています。
22.5.7 東京都清瀬市
高崎正風(たかさきまさかぜ)は、明治27(1894)年に著された与謝野鉄幹の短歌論「亡国の音」や、明治31年(1898)に正岡子規が発表してその後の和歌の流れを決定的に変えた「歌詠みに与ふる書」で、いわゆる旧派和歌の代表として辛辣な批判の対象となった人です。伝統的な作風の和歌のほかに、古筆の調査研究に業績を残しました。和歌の刷新を唱えて伝統和歌を批判しようとすると、先ずこの人が敵の首魁に見えたのは、明治を遠く下った現代から眺めるとなるほどと納得されます。歌の古風であることのほかに、盛んな古歌古典研究が目立ったのです。この人のあとは大口周魚(おおぐちしゅうぎょ)がその新派の標的でした。
本居豊穎(もとおりとよかい)は本居宣長の曾孫にあたる国学者で東京女子師範、東京帝国大学で教鞭を執り、宮中に進講の御用の多い人でした。ほか中村秋香(なかむらあきか)、佐佐木信綱(ささきのぶつな)、池邊義象(いけべよしかた)、武島羽衣(たけしまはごろも)といった人々も、分かりやすく言えば職業は大学教授で、それぞれに後世に参照される優れた文学研究があります。
22.4.29 東京都清瀬市
22.5.9 東京都清瀬市
御歌所は伝統和歌を他の伝統文化ともども支え、さらに盛んにすることを目指した部署であったはずですが、明治の中期以降の和歌改革といわれる文学運動の波の中で古来の歌を守ることが結局できませんでした。明治中期以降は「明星」に代表される新しい歌、個人の感情をエキセントリックなまでに訴える、多弁な独り言が取って代わって今日に至ります。伝統和歌は傍流になったのではありません。ほぼ死滅したのです。人事に関係のない、身の回りの風や光や、小さな足許の花に季節を歌うような、さりげない自然の美しさは歌われにくくなりました。
22.5.4 東京都清瀬市
22.4.29 東京都清瀬市
2 夢となりて
遡って明治のその時、挑発的な新派の論調に反駁せずに、御歌所の人々は超然とそれぞれの古典研究に励みました。新派のあけすけな独り言のような歌の言葉づかいは、それまでとあまりに違いすぎて簡単には比較の対象になりません。もしかすると取るに足らないことと見くびっていたのかも知れません。しかし、その後の和歌史の流れを見れば、論戦をした方がよかったと思えてなりません。ひとりひとりを見てみれば、弁の立つ与謝野鉄幹に仮に妻が加勢したとしても、当時の御歌所の知性は群を抜いていました。今となっては誰も論じない伝統和歌の本質とその豊かさを、当時の碩学がどう語ったかは是非聞いてみたいところです。そもそも、まったく異次元の発想である新派和歌の立場から挑まれでもしなければ、伝統和歌を改めて語ると言うような機会は無かったはずなのです。
22.5.4 東京都清瀬市
もっとも、反論しても大勢は変わらなかったかも知れません。新派和歌一色になったのは、これが分かりやすかったからです。誤解を恐れず言えば、新派和歌は伝統和歌より低い水準で作ることができるから、その歌は大衆化できたのです。しかし、ひとりの与謝野晶子はすぐれていますが、この世の歌が皆与謝野晶子の亜流になってよいはずはなかった。論を闘わせて、伝統和歌の立場を鮮明にしておいてくれれば、革命的な熱の冷めたあとに、改めて全体を見直すそのよすがになったであろうに、伝統和歌も、主流でないまでももっと普通に継承されて来たであろうに、実に残念です。
江戸までを継承できなかった明治という時代は、日本文化を考える上で、今後あらゆる角度から検証されることになるでしょう。伝統和歌が途絶えたのも、大きな流れとしては、この明治の文化動乱の渦の中のことでした。
御歌所の人々の作品を比較的多く所蔵しているのが、千葉県成田市にある成田山書道美術館です。天台宗の古刹成田山新勝寺の境内にある美術館です。新緑の中、その中に眠る、今や夢となったような美しい昔の歌を尋ねるのも一興です。
このたびは、野の春、小さな草花の歌を中心に集めて御紹介します。
【文例】 和歌