2008年9月 1日

第41回 実りの秋へ:雷、鳴る神、かみ(雷)、稲妻、天神、桑原

[9月の文例] 和歌  訳詩・近現代詩  散文


20.8.31 東京都清瀬市


1 カミの脅威
  TVを点ければ毎日のように気象情報のテロップが流れ、豪雨被害の報道に胸の騒がしい8月後半でした。関東もこの一週間ほど、夕方には稲妻が走り、夕 立と言うには激しすぎる雨に見舞われております。雷雨が夕方から宵の口で止まらずに深夜まで止まないのは例年にない珍しい気象だと感じます。全国的に見て も、今年は雷の被害の多い年であるようです。


20.8.18 東京都清瀬市柳瀬川堤

  「地震、雷、火事、なんとやら」と言うように、雷は本来恐ろしものでした。「雷の陣」というのは延喜式にすでに規定が見えますが、雷鳴の時に宮中に臨 時に設けられる内裏警護のシステムです。雷鳴が三度すると、近衛府の将官が清涼殿の孫廂に伺候して弦打(つるうち)して帝の警護にあたりました(『公事根 源』による)。弦打というのは弓弦を弾いて震動音を立てることで、魔除けの動作です。何か不穏の状況に遭遇したとき、物の怪に襲われそうなときの決まり事 です。雷鳴の轟きはそれだけ身に迫る危機を感じさせるものだったのでしょう。




20.8.23 東京都清瀬市柳瀬川堤

  闇が一閃昼間のように明るくなったり、夜空に険しく走る稲妻や、バリバリと妙に乾いた響きの大音響はたしかに恐ろしいものです。本能に訴える恐怖なの ではないかと思うのは、雷にパニックを起こす動物の話をよく聞くことです。以前隣家がお庭で飼っていた中型犬は、特に臆病というわけでもない普通の穏やか な犬でしたが、雷のひどい日、鎖を引きちぎって駈け出してそのまま居なくなってしまいました。数日後、薄黒く汚れ、ぼろぼろに疲れた姿で数㎞隔たった場所 で保護されましたが、その後も雷が鳴る度に御家族は犬の気持ちをのどめるのに気を遣わなければならないということでした。


20.8.22 東京都清瀬市柳瀬川 川遊びする犬

  瞬時に揮われるこの激烈さによって、古代においては雷こそがカミ、神威の現れと捉えられていました。日本語でいうカミナリのカミはもちろん「神」と同じ言葉です。古くはカミだけで、今でいう雷の意味を表していました。

  日本神話を紐解くと、天孫降臨の前に地上に下って葦原中国(あしわらのなかつくに:日本)を平定したタケミカヅチ(建御雷、武甕槌)といった神は雷神 でした。葦原中国平定の際、出雲側のタケミナカタノカミ(健御名方神)と力比べをして勝ち、これを従わせたとされており、この二神の力比べが相撲の起源で あるとされているのも興味深いことです。


『風神雷神図屏風』俵屋宗達(建仁寺蔵)

2 天神
  平安時代、藤原氏が権力を安定的に確保するまでの期間に繰り返された他氏排斥の一例として有名なものに昌泰の変(昌泰4年:901)があります。藤原 時平を中心とした勢力による右大臣菅原道真の左遷事件です。宇多天皇に重用された道真は娘を宇多帝の皇子斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせていました。 宇多帝のあとを承けた醍醐天皇は15歳で即位し、父院から受け継いだ重臣道真を頼りにしていましたが、讒言により、帝は道真が娘婿である斉世親王を帝位に 就けようとしている、すなわち皇位の行方を私しようしていると信じ、道真一族に過酷な処罰を下しました。思いもかけない無実の罪で九州大宰府に流された道 真は、わずか2年後の延喜3年(903)、失意のうちに遠い九州の地で没しました。


20.8.23 東京都清瀬市

  そのような事情がかなり広く知られていた中、菅原道真の死後、都には異変が続きます。まずは左大臣藤原時平が、道真の死後間もなくして39歳の若さで 急死します。さらに皇太子の保明親王が21歳で、次の皇太子に立った慶頼王(時平の孫)はわずか5歳でと、醍醐天皇の皇子が次々に病死します。続いて干 害、水害が起こり、凶作が重なり、飢饉や疫病の流行など相次ぐ災害に20年余りも悩まされます。もうその頃には都中に道真の祟りが噂されるようになってい ました。
  そんな中で、延長8年(930)内裏の清涼殿に落雷があり、藤原氏の公卿に多数の死傷者が出るといった異常な事故が起きました。

  いよいよこれらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すとともに贈位を行い、連座で処罰を受けていた道真の子息たちも流罪を解かれ、京に呼び返 さることになったのです。清涼殿落雷の事件から、道真の祟りは雷神と結びつけられるようになりました。そこで道真の怨霊を鎮めるため、火雷天神が祀られて いた京都の北野に北野天満宮を建立して道真を神として祀ることになったのです。道真が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮が建立されました。こうして天神信 仰は全国に広まりました。怨霊として恐れる意識は時とともに薄れて、平安時代末期から鎌倉時代に書かれた『天神縁起』によれば、この時代には天神様は慈悲 の神、正直の神として信仰を集めています。すでに祟り神の面影はありません。江戸時代に至って、道真が生前優れた文人であったことから天神は今日私たちが 知るとおりの学問の神として信仰されるように移ってきたのです。



       高尾天神社近く「みころも公園」に立つ菅原道真公像
       大正天皇が殊に天満宮に信仰が篤かったことから、多摩御陵造営の
       記念事業として昭和6年(1931)に建立された。
       みころも公園の「みころも」とは、道真が大宰府で詠んだ漢詩の一節
       「恩賜の御衣いまここにあり」から採られたという。

  ところで、何ごとか危険を察知したときの厄除けに「くわばら、くわばら」を唱えるのは、本来は雷除けのおまじないであったというのは御存じでしょう か。道真憤死の後、頻繁な落雷は道真の祟りかと恐れられましたが、菅原道真の領地であった京都の桑原荘には全く落ちなかったと言い、その地名を唱えれば雷 は落ちないというおまじないになったとする伝承です。この地名から発展して、雷は桑の木が苦手であるという説が生じ、江戸時代の浄瑠璃にはいやなことを強 要するという意味で「雷に桑酒を強いる」といった表現まで見えます。

  雷が怖いもののたとえに引かれて、厳しい叱責について「雷が落ちる」という言い方があったりします。こんな所から、叱言やお説教を避けられますようにと「くわばら、くわばら」の使用範囲は拡がっていったようです。




20.8.27 東京都清瀬市柳瀬川堤

3 実りの秋へ
  雷は峻烈な神威の現れであり、打たれて死ぬこともあり、恐ろしいものである一方、夏の終わりから初秋にかけて稲穂の実るころに多いことから、これが稲 作を助けるものであるという感じ方が古代からあったようです。成育中の稲がカミの閃光によって霊的なものと結合して穂が結実すると考えたのです。稲妻とい う言葉がそれを伝えています。

  イナヅマは稲+ツマ(夫・妻)の意味で、ツマとは結婚の相手になるものを言い、本来男女どちらにも用いる言葉です。雷の閃光と稲とは夫婦のような関係 で、その結果に豊かな稲穂の実りがあるとするものです。菅原道真が祀られた火雷天神も、天から降りてきた雷の神とされる地主神で、雷は雨とともに起こり、 雨は農業に欠かせないものであるところから、もともと稲作を含む農耕の守り神でもありました。今年の雷はそれにしても脅威的ですが、やがて来る実りの季節 の前触れではあるのでしょう。

  立秋からまもなくひと月。今年は9月7日が二十四節気でいう白露です。大気が冷えて来て、露が結びはじめる頃といいます。夏の空気に冷気が入り交じる大気の不安定なところに雷は生じやすいのだろうと、何となく納得のゆく名前ですね。
                                     (20.9.1)

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