第75回 春を待つ日の花: 梅花 立春 雪
第75回【目次】
* 漢詩・漢文
* 和歌
* みやとひたち
22.2.2 東京都清瀬市柳瀬川
1 春を待つ日の「花」
暦の春、立春はもう目の前ですが、2月1日、東京は久しぶりの雪になりました。東京にいて大雪注意報を聞くのは一年に一度あるか無いかのことです。夕方から降り出して、夜の間に降り積み、明けた2日の朝は庭も真っ白でした。
22.2.2 東京都清瀬市
庭に遊びに来るジョウビタキやメジロ、シジュウカラはこんな朝、どこで雪を見ているのでしょう。そういえば、先日はコゲラも来て、柿の木を軽快につついているのを、みやとひたちがガラス戸にくっついて観察していました。
コゲラ(啄木鳥) 22.1.13 東京都清瀬市
冬ながら空より花の散り来るは 雲のあなたは春にやあるらむ
『古今和歌集』330清原深養父
(冬でありながら、空からこう花が散り来るのは、雲のあのむこうは
もう春なのだろうか)
空から散り来る花とはもちろん雪のことです。雪は散る花に、また花は雪に譬えられるのは和歌の通例です。作者清原深養父は、『枕草子』の筆者として知られる清少納言の二代前、清少納言の祖父にあたります。同じ作者にやはりこの時節を詠んで、次のような歌もあります。
冬ながら春の隣の近ければ 中垣よりぞ花は散りける
『古今和歌集』1021
(冬ではあるけれど、もう春が隣合うまでに接近し、近くなったので、
中空で季節を隔てている垣根の向こう側(春の側)から、こちらに
花(雪)が吹き越して散って来ることだ)
立春が近くなった頃の雪は、季節を冬に引き戻すような素材ですが、人の心はもう来る春のことでいっぱいです。寒中の冷たい雪もむしろ花とこそ見るのです。季節は暦に従って進み循環する、という古代の時間の観念が、その春の希望を力強く支えていました。
雪の枝にシジュウカラ 22.2.2 東京都清瀬市
ソウシチョウ 22.1.31 東京都東村山市八国山
ところで、雪とともに詠まれる時の「花」とは何の花でしょう。
深養父の歌をちょっと離れて、先に一般的なお話をいたしましょう。
「花と言えば桜」といういわゆる平安時代の古典常識もあります。その上、たしかに盛んに降る雪は一斉に散る桜の散り方とよく通じますから、春の落花を詠む歌に「雪」という単語は古来つきものでした。しかし落花が詠まれる季節は弥生の半ばから後、現在のカレンダーに重ねればすでに四月後半ですから、実際に降雪があることはほとんど考えられない気候です。雪を桜花に、また桜花を雪に見立てることは、実景とは離れて純粋な「見立て」として行われたわけです。
22.1.16 東京都清瀬市
さて、深養父の歌にもどります。歌の主役はこの時期に降ってきた雪です。その雪を花に見立てて、何の花という具体的な情報とは無関係に「花」という言葉で春を連想させる作りになっています。「花」は春を導く役割だけに用いられ、極めて抽象的存在であるところが、むしろ古典の通念にある「桜」そのものとして理解できるのです。
しかし、古典においてよく雪に見立てられる花は、桜だけではありません。実際に雪と同じ季節に咲き合うことがある梅がそれです。
22.1.22 東京都清瀬市
2 まず咲く花は
日本人が愛し、歌の題材にして来た四季の花々を暦に沿って見るならば、まず第一に咲くのが梅の花です。陰暦の時代には正月の花として捉えられてきました。
22.1.22 東京都清瀬市
陰暦の1月1日は理論上は春の始めということで立春と一致するのですが、実際は陰暦と二十四節気とでは一年の長さが体系的に違うので(陰暦は一年の日数をおよそ354日とする体系、二十四節気は地球の公転周期が基準なので現行暦とほぼ一致して一年を365日とする体系)、元日が立春と重なることはむしろ希です。梅の場合は、同じような気象状況の年でも(陰暦)正月を迎えてほころぶ年もあれば、(陰暦の)年末にもう咲いている年もあったわけです。立春の前であったり後であったりします。こんな季節はまだまだ実際に雪も降ります。ちょうどこの2月1日の東京のように。花に雪の取り合わせは、桜の場合とは異なって、実景を詠むものです。
22.1.22 東京都清瀬市
桜の場合「雪」の見立ては主に落花ですが、梅は枝に降り置いた雪を、そこに咲いている花として詠むのが通例です。また、「梅」と言えば早くから渡来した白梅のことで、後から来た赤い梅は「紅梅」とはっきり別名で呼びます。梅は白い雪と同じ色であるところを強調して詠まれる歌も多いのです。枝に積もった雪を花と詠むことはもちろん、枝の上の白いものが梅花か雪かを見分けることができない、雪にまぎれて花が分からない、といった意匠でよく詠まれています。
22.1.27 東京都清瀬市
立春を前に、このたびの文例集には梅の詩歌を集めました。漢詩には豊富です。毎年この季節には梅にちなむ詩を御紹介していますが、無尽蔵です。また、中国の文物を貴重とした平城京の貴族がまず梅を好んだことで、奈良時代の「花」は梅でありました。ですから、和歌には『万葉集』以来近世まで、さらに今日の和歌にも様々な梅が詠まれ、愛好の歴史は豊かです。これまでにも何度か機会がありましたので、このたびは近世の作品を選んで御紹介いたします。一方、近世以来の試みである不定形詩、訳詩の分野にはなかなか詠まれない素材です。西洋には「梅」と訳してふさわしい植物が無いのかも知れません。唱歌や童謡も和漢の古典に根ざしたもの以外は見あたりません。新しく、現代の視点による梅の歌が現れてもよいのではないかと思われますが、近現代の詩心に歌うことの難しいところがあるのでしょうか。長く日本人が愛して来た花であるだけに、残念な気がいたします。
なお、連載第4回、第52回にも梅花の詩歌の例文を集めてあります。併せて御覧下さい。
22.1.22 東京都清瀬市
蕎麦屋「かなさご」の飼い猫さん
オ散歩ニ イカナイ 主義、オ家デ コロコロガ 好キナンダヨー
* 漢詩・漢文
* 和歌
* みやとひたち
22.2.2 東京都清瀬市柳瀬川
1 春を待つ日の「花」
暦の春、立春はもう目の前ですが、2月1日、東京は久しぶりの雪になりました。東京にいて大雪注意報を聞くのは一年に一度あるか無いかのことです。夕方から降り出して、夜の間に降り積み、明けた2日の朝は庭も真っ白でした。
22.2.2 東京都清瀬市
庭に遊びに来るジョウビタキやメジロ、シジュウカラはこんな朝、どこで雪を見ているのでしょう。そういえば、先日はコゲラも来て、柿の木を軽快につついているのを、みやとひたちがガラス戸にくっついて観察していました。
コゲラ(啄木鳥) 22.1.13 東京都清瀬市
冬ながら空より花の散り来るは 雲のあなたは春にやあるらむ
『古今和歌集』330清原深養父
(冬でありながら、空からこう花が散り来るのは、雲のあのむこうは
もう春なのだろうか)
空から散り来る花とはもちろん雪のことです。雪は散る花に、また花は雪に譬えられるのは和歌の通例です。作者清原深養父は、『枕草子』の筆者として知られる清少納言の二代前、清少納言の祖父にあたります。同じ作者にやはりこの時節を詠んで、次のような歌もあります。
冬ながら春の隣の近ければ 中垣よりぞ花は散りける
『古今和歌集』1021
(冬ではあるけれど、もう春が隣合うまでに接近し、近くなったので、
中空で季節を隔てている垣根の向こう側(春の側)から、こちらに
花(雪)が吹き越して散って来ることだ)
立春が近くなった頃の雪は、季節を冬に引き戻すような素材ですが、人の心はもう来る春のことでいっぱいです。寒中の冷たい雪もむしろ花とこそ見るのです。季節は暦に従って進み循環する、という古代の時間の観念が、その春の希望を力強く支えていました。
雪の枝にシジュウカラ 22.2.2 東京都清瀬市
ソウシチョウ 22.1.31 東京都東村山市八国山
ところで、雪とともに詠まれる時の「花」とは何の花でしょう。
深養父の歌をちょっと離れて、先に一般的なお話をいたしましょう。
「花と言えば桜」といういわゆる平安時代の古典常識もあります。その上、たしかに盛んに降る雪は一斉に散る桜の散り方とよく通じますから、春の落花を詠む歌に「雪」という単語は古来つきものでした。しかし落花が詠まれる季節は弥生の半ばから後、現在のカレンダーに重ねればすでに四月後半ですから、実際に降雪があることはほとんど考えられない気候です。雪を桜花に、また桜花を雪に見立てることは、実景とは離れて純粋な「見立て」として行われたわけです。
22.1.16 東京都清瀬市
さて、深養父の歌にもどります。歌の主役はこの時期に降ってきた雪です。その雪を花に見立てて、何の花という具体的な情報とは無関係に「花」という言葉で春を連想させる作りになっています。「花」は春を導く役割だけに用いられ、極めて抽象的存在であるところが、むしろ古典の通念にある「桜」そのものとして理解できるのです。
しかし、古典においてよく雪に見立てられる花は、桜だけではありません。実際に雪と同じ季節に咲き合うことがある梅がそれです。
22.1.22 東京都清瀬市
2 まず咲く花は
日本人が愛し、歌の題材にして来た四季の花々を暦に沿って見るならば、まず第一に咲くのが梅の花です。陰暦の時代には正月の花として捉えられてきました。
22.1.22 東京都清瀬市
陰暦の1月1日は理論上は春の始めということで立春と一致するのですが、実際は陰暦と二十四節気とでは一年の長さが体系的に違うので(陰暦は一年の日数をおよそ354日とする体系、二十四節気は地球の公転周期が基準なので現行暦とほぼ一致して一年を365日とする体系)、元日が立春と重なることはむしろ希です。梅の場合は、同じような気象状況の年でも(陰暦)正月を迎えてほころぶ年もあれば、(陰暦の)年末にもう咲いている年もあったわけです。立春の前であったり後であったりします。こんな季節はまだまだ実際に雪も降ります。ちょうどこの2月1日の東京のように。花に雪の取り合わせは、桜の場合とは異なって、実景を詠むものです。
22.1.22 東京都清瀬市
桜の場合「雪」の見立ては主に落花ですが、梅は枝に降り置いた雪を、そこに咲いている花として詠むのが通例です。また、「梅」と言えば早くから渡来した白梅のことで、後から来た赤い梅は「紅梅」とはっきり別名で呼びます。梅は白い雪と同じ色であるところを強調して詠まれる歌も多いのです。枝に積もった雪を花と詠むことはもちろん、枝の上の白いものが梅花か雪かを見分けることができない、雪にまぎれて花が分からない、といった意匠でよく詠まれています。
22.1.27 東京都清瀬市
立春を前に、このたびの文例集には梅の詩歌を集めました。漢詩には豊富です。毎年この季節には梅にちなむ詩を御紹介していますが、無尽蔵です。また、中国の文物を貴重とした平城京の貴族がまず梅を好んだことで、奈良時代の「花」は梅でありました。ですから、和歌には『万葉集』以来近世まで、さらに今日の和歌にも様々な梅が詠まれ、愛好の歴史は豊かです。これまでにも何度か機会がありましたので、このたびは近世の作品を選んで御紹介いたします。一方、近世以来の試みである不定形詩、訳詩の分野にはなかなか詠まれない素材です。西洋には「梅」と訳してふさわしい植物が無いのかも知れません。唱歌や童謡も和漢の古典に根ざしたもの以外は見あたりません。新しく、現代の視点による梅の歌が現れてもよいのではないかと思われますが、近現代の詩心に歌うことの難しいところがあるのでしょうか。長く日本人が愛して来た花であるだけに、残念な気がいたします。
なお、連載第4回、第52回にも梅花の詩歌の例文を集めてあります。併せて御覧下さい。
22.1.22 東京都清瀬市
蕎麦屋「かなさご」の飼い猫さん
オ散歩ニ イカナイ 主義、オ家デ コロコロガ 好キナンダヨー
【文例】 漢詩