2010年10月23日

第91回秋の日:コスモス 秋桜 葛飾土産 夕焼け

第91回【目次】         
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    * 和歌
    * 散文
    * 訳詩・近現代詩
    * 唱歌・童謡
    * 俳句
    * みやとひたち



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1 まぼろし草もコスモスも

    まぼろし草も
    コスモスも
    花は昔の
    ままで咲く
          野口雨情「おけらの唄」より抜粋

  不思議な詩です。詠まれている「まぼろし草」とはどんな植物なのか、すぐには思いあたりません。調べてみましたが、それらしいものには出会わず、まったく見当がつきませんでした。こうなると、そもそも実在する何かしらの植物を指して歌っているのかそうでないのかも分かりません。不確かで、危うい気配さえ漂います。その一方で「花は昔のままで咲く」という一節には昔から聞き知っているような、何とも言えないこなれた安定感があります。

  それもそのはず、花は昔のままに咲くという感慨は、人の世の変転量りがたいことと対比して、古くから詩にはよく歌われてきたフレーズです。

   ひとはいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
                 紀貫之「古今和歌集」42

   歳々年々花あひ似たり 年々歳々人同じからず
  (年年歳歳花相似  歳歳年年人不同)
                 劉希夷「代悲白頭翁」より

  などは、どなたにも親しく思い起こされる詩句でありましょう。


  それでは、よくわからない「まぼろし草」とよくわかる感興である「花は昔のままに咲く」との間をつなぐ「コスモス」は、この詩の中ではどういう役割なのでしょう。それは「分からない」側なのか、「分かる」側なのか。

      
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2 コスモス登場

  「新秋の七草」にも数えられるコスモスが初めて日本にもたらされたのは、明治12年(1876)に来日したイタリア人彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザ(1841〜1927)によってであったことは、「新秋の七草」を御紹介した回にも御紹介したとおりです(連載第43回)。それからコスモスはどのように私たちの風景に広がって来たのでしょう。明治の著作にたどれるものが折々見つかります。たとえば文豪永井荷風にはそのものズバリ「コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か」と始まる文章もありました。

    コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か、
   わたくしはその年代を審(つまびらか)にしない。しかし概して西洋種の
   草花の一般によろこび植ゑられるようになつたのは、大正改元前後のころ
   からではなからうか。
                            永井荷風「葛飾土産」

      
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  面白いことに、荷風は、こうした草花も含んだ西洋渡来のものの流行を、自然主義文学の勃興、婦人雑誌の流行、女優の輩出などとほぼ同年代であったと観察しています。

    わたくしは西洋種(だね)の草花の流行に関して、それは自然主義文学の
   勃興、ついで婦人雑誌の流行、女優の輩出などと、ほぼ年代を同じくしてゐ
   たやうに考へてゐる。入谷の朝顔と団子坂の菊人形の衰微は硯友社文学と
   これまたその運命を同じくしてゐる。向島の百花園に紫苑や女郎花に交つて
   西洋種の草花の植ゑられたのを、そのころに見て嘆く人のはなしを聞いたこ
   とがあつた。
    銀座通の繁華が京橋際から年と共に新橋辺に移り、遂に市中第一の賑ひを
   誇るやうになつたのも明治の末、大正の初からである。ブラヂルコーヒーが
   普及せられて、一般の人の口に味はれるやうになつたのも、丁度その時分か
   らで、南鍋町と浅草公園とにパウリスタといふ珈琲店が開かれた。それは
   明治天皇崩御の年の秋であつた。
                            永井荷風「葛飾土産」

      
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  面白い話です。ただ、コスモスについてだけは、はじめやや信用しきれないものがありました。荷風はこうも書いているからです。

    わたくしが小学生のころには草花といへばまず桜草くらいに止つて、殆ど
   その他のものを知らなかつた。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多く
   あつたのを聞きつたへて、草鞋ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は
   工場の多い板橋区内の陋巷となり、桜草のことを言ふ人もない。

      
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  一昔前まで、いったいに都会の人は花の名などには無関心だったような気がします。亡くなった恩師大野晋先生も詩歌や物語でどれほどの花に出遭っておられたかわかりません、文献上のことにはよろず博識でいらっしゃいましたが、実際の花を前には「菊ならわかるよ、チューリップも知っている」という程でいらっしゃって、「派手な花はだいたい薔薇じゃないかな」という御発言には仰天したことがありました。自分ばかりではない、下町の者は花の名前は知らない、とはばかりなく仰るのでした。

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  桜草しか知らなかったという荷風の思い出すコスモスの風景は、はたして信用に足るものか。しかし、その後も同時代にさまざまな記事が見つかり、荷風の記憶はコスモスの風景に関しても頼りになりそうだとわかりました。

  木下利玄の随筆に、倉敷の田舎を散策した折を綴ったものがあります。そこには

    暫くたつて、此の處を出かけると程なく森の中に墓のある處へ来た。もう
   里へ下りたと思つたら、急に森を出て、あかるいコスモスの咲いてる百姓家
   の背戸へ出た。コスモスは此の辺の田舍迄(まで)行き渡つて居る。

という記述がありました。明治44年10月18日のことです。
コスモスの広がり方は都会と田舎とでどれほどか違いがあったのか、あるいはそれほどの時間差はなかったのか。詳しいことはわからないながら、この花が日本の風景に混じった時期が「大正改元前後」の頃という荷風の指摘は適正であるように思われます。

      
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3 そして、まぼろし草もコスモスも

  コスモスは明治のその時期過去のない花でした。それでは、明治におけるコスモスとはどのように受け取られる花だったのでしょう。

  寺田寅彦や芥川龍之介の文中に「庭にコスモスのあるような家」といった表現を見ることがあります。豊かでモダンな、幾分西洋かぶれの気味もある中流家庭を指して使われるものでした。コスモスはまだこの時期ありふれた花ではないのです。そう考えた時、先に掲げた野口雨情の詩に歌われるコスモスは、今日の私たちが思うコスモスとは少し違う顔であったことが想像されてまいります。

  野口雨情(明治15年・1882〜昭和20年・1945)はまさにコスモス渡来の頃に生まれ、コスモスの普及と同じ時を明治・大正そして昭和まで生きた人です。その時代の人に、コスモスは舶来の花、まだ新しい花で父祖の時代に記憶のない存在です。「昔のままに咲く」その「昔」とは詩人が思い及ぶ、人の側の「昔」ではなく、言うならばコスモスの「昔」です。それは、一個の人間の体験や記憶を離れた、絶対的な過去の時を指しています。超然と昔のままに咲いている「はず」のコスモスは、おそらく架空の花である「まぼろし草」とも同様に、極めて象徴的な花であり、人の世を離れた夢幻の花として歌われているように思われるのです。そして、この詩の心とは、やはり言外に「(花とは違って)人は昔のままではない」を歌うところにあるのではないかと思うのですが、いかがですか。

      
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【文例】 和歌

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