第80回 落花:花散る 空に知られぬ雪 八重桜 地球温暖化
第80回【目次】
* 和歌
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
22.4.24 東京都清瀬市
1 空に知られぬ
22.4.24 東京都清瀬市
桜散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ散りける
紀貫之(872頃〜945)の作。第三勅撰和歌集「拾遺和歌集」にも採られました。
桜は一斉に散るのが風情で、その姿はよく雪にたとえられました。この歌もその意匠で詠まれています。ここには雪をもとより空に所属するものという認識があるようです。桜の木のあたり、空間を舞い降りる花びらは、あたかも雪のように見えますが、その「雪」は空が感知しない雪なのであると。
舞う花びら 22.4.24 東京都清瀬市
春の明るい空を背景に、降るように盛んに散る桜を雪と歌うのはまことに美しい見立てですが、今年の東京は、何とその桜の季節のあとに本当の雪が降るという寒い春でした。
22.4.24 東京都清瀬市
東京都清瀬市
2 温暖か
いわゆる「地球温暖化」ということが現代の危機のように折々話題にされますが、地球規模の気温変化を長い時間尺度で眺めて見た時、今という時期はそもそもどういう時期に当たるのでしょう。悠久には同じでないのが自然である地球の気象において、今の気温状況がどのようにどのくらい問題なのでしょう。
サムイケド オ散歩 ニ キマシタ
子供たち向けには啓蒙活動なのか「地球温暖化」危機を訴える標語やポスターのコンテストも盛んに行われ、「地球温暖化」という言葉の刷り込みは行き届いているようです。しかし、氷期や間氷期といった小学生でも知っている地球温度の基礎的な知識とその現象とはどのような関係であるのか、その上でどのように異常なのか、根本的な説明が聞こえて来ないのがいかにも不審です。納得できる説明が一般にはなされないまま、国際間でせめぎあう議題にもなって、もはや「地球温暖化」の問題は世界の政治・経済と切り離せません。当然のことのように法律まで動き、二酸化炭素の排出量に関して数値目標を達成しない企業は処罰されるという。
都内で二酸化炭素の排出量が最も多いとして白い目を向けられているのは本郷の東京大学です。広い敷地にたくさんの古い建造物。いわゆる数値目標を果たすためには、旧式システムの空調機器などを一斉に入れ替えなければならないのだそうです。それだけでもかなりな経費になるわけですが、事はおそらくエネルギー源の問題にも実はつながり、こんな程度の問題ではなさそうです。
一般的な事柄として、二酸化炭素の過剰な排出量を抑えるという目的は悪いこととは思いません。しかし、正しく科学的な説明を聞きたい。「二酸化炭素の排出量を抑制する」ということのために、現実に起きているさまざまな現象を見ると、「地球温暖化」を訴えてその対処に関わる人にもさまざまな目的がありそうに見えます。そもそも、そのおおもとは何だろうかと思われてなりません。
スベテチキュウノタメと唱えて済ませてしまうとしたら、怪しい宗教と同じですからね。
宗教ハ 尊イケドネー
デモ 政教分離ハ 猫デモ 知ッテル ルール
3 春や昔の春ならぬ
...「春」は同じではないのかもしれない
平安時代の気象は現在よりかなり温暖であったと知られています。そのことが印象的に分かるエピソードが11世紀初めに書かれた「紫式部日記」にあります。
「紫式部日記」には、作者が仕えた藤原道長の女(むすめ)彰子(一条天皇の中宮)の御産に関する詳しい記録があり、宮中行事を具体的に伝える歴史資料としても注目される作品です。時期は陰暦9月。当時、政治権力を安定的に確保するには何と言っても天皇の外戚になることでした。この御産の記事の見える彰子とは、藤原道長が家の命運を託して12歳で宮中に送った一の姫です。野心家で、兄の中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)の死後、当然その跡を継ぐと見られていた甥を追い落として権力の座に就いた道長は、たしかに政治家としての資質に恵まれて豪腕を揮いましたが、その生涯の軌跡を眺めて何より感嘆するのは折々の運の強さです。期待された長女の彰子は、初めての御産で男子(敦成親王)を授かります。のちに後一条天皇 となる皇子です。彰子にはこののち、二番目の皇子(敦良親王、後朱雀天皇)も産まれて、道長の政権を支えました。
この敦成親王の誕生が、寛弘5年(1008)陰暦9月11日。現在のカレンダーに重ねると10月の中旬にあたります。天皇の中宮(ちゅうぐう)、それも権力者道長の娘の御産ということで、周りの貴族達の気の使いようも一通りではありません。入念な加持祈祷が重ねられ、いよいよ御産が近づくと、しかるべき貴族達は誕生の瞬間を待って土御門邸に参集し、屋外で夜明かししたりします。「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿 の 有様、いはむかたなくをかし」と始まるこの日記は、その筆致から、この秋が特別暑くも寒くもない、作者には当たり前と思われる順当な年であったと推察されるのですが、都の貴族達は、邸内の打ち橋などにそのまま横になって夜を明かしているようで、せいぜい着物一枚くらいの掛け物があるかないかといったところです。10月半ばの夜、京都の秋冬は昼夜の寒暖の差の大きいことで知られます。1971年から2000年までの30年の統計で、10月中旬の平均気温はおよそ17度から18度。明け方の最低気温はおよそ11、2度といったところです(京都地方気象台統計「京都府の気象特性」)。そこにまったく装備もなしで野宿することを思えば、当時の気温が今日より相当高かったことは自明です。
あやめ 22.4.17 東京都清瀬市
貫之が「空に知られぬ雪」を詠んだのは「紫式部日記」からなお100年ほど遡る10世紀の初めです。この頃の京都は、実は「紫式部日記」の時期より更に暖かかった可能性があります。
気象予報士石井和子氏が、世界の気象を扱う研究書「Regionality of Climate Change in Monsoon Asia」(M.M.Yoshino)に基づいて平安・鎌倉時代の気温を推定した資料があります(「平安の気象予報士紫式部」講談社)。これによれば、奈良時代後半の750年過ぎ頃から日本は暖かくなる方向に向かっており、800年代はかなり暖かく、900年代もそれが大方続き、1000年を過ぎた頃から少しずつ気温は下がり始め、特に11世紀後半から12世紀に掛けては一時的にきびしい寒さに見舞われたことがあるらしいと推測できる、といいます。
大伴家持等は「万葉集」の編輯に勤しみながら「ああ、今年は暖かいな」と年々思っていたのでしょうか。800年代と言えば、「古今和歌集」(905年)の歌人たち、在原業平や小野小町が活躍していた時代です。平安時代を通じてですが、夏の歌が春秋に比べて少ないのはともかく、冬の歌よりもさらに少ないのは、京都の暑い夏が本当に苦しかったのかもしれません。平安時代よりは気温が下がったと推定される14世紀の「徒然草」(吉田兼好)に、住まいは夏向きに建てるのがよいという趣旨が見え、「冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり」とあるのも、兼好自身が体感していた不快に加えて、平安以来のある種伝統的な苦しさをしのばせます。
柳瀬川堤 22.3.20 東京都清瀬市
こうしてみると、散る桜について、貫之の頃には定着していた雪の見立てですが、これは紛れもなく比喩であって、当時の気象から考えて実景の中に桜と雪が共存することはまずなかったのではないかと思われます。今年の春のような景色に出逢うことがあるとしたら、業平や貫之は、はたしてどんな歌を詠んだでしょう。
22.3.24 東京都清瀬市
歌の歴史は一つには伝統の継承です。奇抜な着想や斬新な表現が魅力的なのはもちろんですが、それ以前の土台として、人みなに共通理解できる素材や表現法を使って、折々の心を伝えようとするのが敷島の道です。歌は人と人とが心を通わせ、感情の共有を求める行為であったと考えられるからです。しかし、そうした伝統も背景にある気象そのものが微妙に変化することを思うと、型の単純な踏襲ではむしろ歌の心をそのままには継承できないことになるのかもしれません。
あけび 22.3.24 東京都清瀬市
* 和歌
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
22.4.24 東京都清瀬市
1 空に知られぬ
22.4.24 東京都清瀬市
桜散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ散りける
紀貫之(872頃〜945)の作。第三勅撰和歌集「拾遺和歌集」にも採られました。
桜は一斉に散るのが風情で、その姿はよく雪にたとえられました。この歌もその意匠で詠まれています。ここには雪をもとより空に所属するものという認識があるようです。桜の木のあたり、空間を舞い降りる花びらは、あたかも雪のように見えますが、その「雪」は空が感知しない雪なのであると。
舞う花びら 22.4.24 東京都清瀬市
春の明るい空を背景に、降るように盛んに散る桜を雪と歌うのはまことに美しい見立てですが、今年の東京は、何とその桜の季節のあとに本当の雪が降るという寒い春でした。
22.4.24 東京都清瀬市
東京都清瀬市
2 温暖か
いわゆる「地球温暖化」ということが現代の危機のように折々話題にされますが、地球規模の気温変化を長い時間尺度で眺めて見た時、今という時期はそもそもどういう時期に当たるのでしょう。悠久には同じでないのが自然である地球の気象において、今の気温状況がどのようにどのくらい問題なのでしょう。
サムイケド オ散歩 ニ キマシタ
子供たち向けには啓蒙活動なのか「地球温暖化」危機を訴える標語やポスターのコンテストも盛んに行われ、「地球温暖化」という言葉の刷り込みは行き届いているようです。しかし、氷期や間氷期といった小学生でも知っている地球温度の基礎的な知識とその現象とはどのような関係であるのか、その上でどのように異常なのか、根本的な説明が聞こえて来ないのがいかにも不審です。納得できる説明が一般にはなされないまま、国際間でせめぎあう議題にもなって、もはや「地球温暖化」の問題は世界の政治・経済と切り離せません。当然のことのように法律まで動き、二酸化炭素の排出量に関して数値目標を達成しない企業は処罰されるという。
都内で二酸化炭素の排出量が最も多いとして白い目を向けられているのは本郷の東京大学です。広い敷地にたくさんの古い建造物。いわゆる数値目標を果たすためには、旧式システムの空調機器などを一斉に入れ替えなければならないのだそうです。それだけでもかなりな経費になるわけですが、事はおそらくエネルギー源の問題にも実はつながり、こんな程度の問題ではなさそうです。
一般的な事柄として、二酸化炭素の過剰な排出量を抑えるという目的は悪いこととは思いません。しかし、正しく科学的な説明を聞きたい。「二酸化炭素の排出量を抑制する」ということのために、現実に起きているさまざまな現象を見ると、「地球温暖化」を訴えてその対処に関わる人にもさまざまな目的がありそうに見えます。そもそも、そのおおもとは何だろうかと思われてなりません。
スベテチキュウノタメと唱えて済ませてしまうとしたら、怪しい宗教と同じですからね。
宗教ハ 尊イケドネー
デモ 政教分離ハ 猫デモ 知ッテル ルール
3 春や昔の春ならぬ
...「春」は同じではないのかもしれない
平安時代の気象は現在よりかなり温暖であったと知られています。そのことが印象的に分かるエピソードが11世紀初めに書かれた「紫式部日記」にあります。
「紫式部日記」には、作者が仕えた藤原道長の女(むすめ)彰子(一条天皇の中宮)の御産に関する詳しい記録があり、宮中行事を具体的に伝える歴史資料としても注目される作品です。時期は陰暦9月。当時、政治権力を安定的に確保するには何と言っても天皇の外戚になることでした。この御産の記事の見える彰子とは、藤原道長が家の命運を託して12歳で宮中に送った一の姫です。野心家で、兄の中関白道隆(なかのかんぱくみちたか)の死後、当然その跡を継ぐと見られていた甥を追い落として権力の座に就いた道長は、たしかに政治家としての資質に恵まれて豪腕を揮いましたが、その生涯の軌跡を眺めて何より感嘆するのは折々の運の強さです。期待された長女の彰子は、初めての御産で男子(敦成親王)を授かります。のちに後一条天皇 となる皇子です。彰子にはこののち、二番目の皇子(敦良親王、後朱雀天皇)も産まれて、道長の政権を支えました。
この敦成親王の誕生が、寛弘5年(1008)陰暦9月11日。現在のカレンダーに重ねると10月の中旬にあたります。天皇の中宮(ちゅうぐう)、それも権力者道長の娘の御産ということで、周りの貴族達の気の使いようも一通りではありません。入念な加持祈祷が重ねられ、いよいよ御産が近づくと、しかるべき貴族達は誕生の瞬間を待って土御門邸に参集し、屋外で夜明かししたりします。「秋のけはひ入り立つままに、
あやめ 22.4.17 東京都清瀬市
貫之が「空に知られぬ雪」を詠んだのは「紫式部日記」からなお100年ほど遡る10世紀の初めです。この頃の京都は、実は「紫式部日記」の時期より更に暖かかった可能性があります。
気象予報士石井和子氏が、世界の気象を扱う研究書「Regionality of Climate Change in Monsoon Asia」(M.M.Yoshino)に基づいて平安・鎌倉時代の気温を推定した資料があります(「平安の気象予報士紫式部」講談社)。これによれば、奈良時代後半の750年過ぎ頃から日本は暖かくなる方向に向かっており、800年代はかなり暖かく、900年代もそれが大方続き、1000年を過ぎた頃から少しずつ気温は下がり始め、特に11世紀後半から12世紀に掛けては一時的にきびしい寒さに見舞われたことがあるらしいと推測できる、といいます。
大伴家持等は「万葉集」の編輯に勤しみながら「ああ、今年は暖かいな」と年々思っていたのでしょうか。800年代と言えば、「古今和歌集」(905年)の歌人たち、在原業平や小野小町が活躍していた時代です。平安時代を通じてですが、夏の歌が春秋に比べて少ないのはともかく、冬の歌よりもさらに少ないのは、京都の暑い夏が本当に苦しかったのかもしれません。平安時代よりは気温が下がったと推定される14世紀の「徒然草」(吉田兼好)に、住まいは夏向きに建てるのがよいという趣旨が見え、「冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり」とあるのも、兼好自身が体感していた不快に加えて、平安以来のある種伝統的な苦しさをしのばせます。
柳瀬川堤 22.3.20 東京都清瀬市
こうしてみると、散る桜について、貫之の頃には定着していた雪の見立てですが、これは紛れもなく比喩であって、当時の気象から考えて実景の中に桜と雪が共存することはまずなかったのではないかと思われます。今年の春のような景色に出逢うことがあるとしたら、業平や貫之は、はたしてどんな歌を詠んだでしょう。
22.3.24 東京都清瀬市
歌の歴史は一つには伝統の継承です。奇抜な着想や斬新な表現が魅力的なのはもちろんですが、それ以前の土台として、人みなに共通理解できる素材や表現法を使って、折々の心を伝えようとするのが敷島の道です。歌は人と人とが心を通わせ、感情の共有を求める行為であったと考えられるからです。しかし、そうした伝統も背景にある気象そのものが微妙に変化することを思うと、型の単純な踏襲ではむしろ歌の心をそのままには継承できないことになるのかもしれません。
あけび 22.3.24 東京都清瀬市
【文例】 和歌