2009年2月15日

第52回 早春:まづ咲く花は、鶯宿梅

第52回【目次】
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    * 漢詩・漢文
    * 和歌
    * みやとひたち




第52回 早春 


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 難波津に咲くやこの花 冬ごもり
 今日[けふ]を春べと 咲くやこの花
                    『古今和歌集』仮名序

  梅の美しい季節になりました。立春が過ぎて、そこはかとなく春めいて来る頃に、風に香って開花を知らせる梅は早春の花の先駆け、また四季を通しても花の一番手であり、「花の兄」と呼ばれる所以です。

   まづさく梅は花の兄 おくるゝ菊は花の弟
   きくの後なる早咲きの 梅は兄かも弟かも
                          阪正臣
     註:この<早咲の梅>は暦の元日が来る前に開花した旧年咲きの梅。
     
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 梅が中国原産であること、奈良時代に渡来し、漢籍に強い文人に熱烈に支持されて詩歌の花形であったことなどは、2007年版のこの季節の稿(「みやと探す・作品に書きたい四季の言葉」第4回 花ざかりに恋を失う:梅・紅梅・好文木・一枝の春・江南所無)に詳しくお知らせしたとおりです(文例も第4回を併せて御参照下さい)。平安時代以降、古典語の歴史に「花」といえば桜が示唆されるように、王朝貴族社会の桜への傾倒は並々ならないものになりましたが、その桜偏重の嗜好が定まるまでの一時期、詩歌の文化がもてはやした花の中の花は梅でありました。文人学者にことに愛された梅は、やはり文人学者の筋にさまざまなエピソードを遺しています。今回はその中から、みやの勧める歴史物語『大鏡』にある「鶯宿梅」の逸話を御紹介します。
     
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1 花の木を求めて(『大鏡』第六巻昔物語)

  物語は夏山繁樹(なつやまのしげき)という人物の若い頃の実体験として語られます。第62代村上天皇[延長4年(926)〜康保4年(967)]の御世[天慶9年(946)〜 康保4年(967)]に、清涼殿(帝の通常お住まいの御殿)の御前の梅が枯れてしまったので、帝はその代わりをお求めになりました。繁樹は良い木を探すように命じられましたが「ひと京(都じゅう)」探しても見つかりません。(そこで範囲を広げたところ)西の京のとある家に色濃く咲いている姿も美しい紅梅を見つけました。喜んで掘り取っていると、中から短冊を持った侍者が現れ、その家の主人からの伝言を伝えます。「木にこれを結い付けてお持ち下さい」。何かわけがあるのだろうと繁樹は言われるがまま短冊を結い付けて、紅梅を御所に運びました。

  帝がそれを御覧になると、それは女性の筆跡になる和歌でした。

   勅[ちょく]なればいともかしこし
   鶯[うぐひす]の 宿はと問はばいかに答へむ
  (勅命とあれば畏れ多いことでございます。謹んでお受けするほかはございません。
   けれども、毎年この木を宿りとする鶯が、私の宿はどこへ行ったのかと尋ねたら、
   どのように答えたらよいのでしょう。)

  帝は不思議にお思いになって、「これは誰の家であるのか」とお尋ねになりました。そこで、改めて調べて見ると、そこは紀貫之の御娘、紀内侍(きのないし)のお住まいであったと分かりました。帝は「遺恨のわざをもしたりけるかな(遺憾なことをしてしまったなあ)」ときまりわるく思われたということです。
     
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2 西の京、紀氏の娘

  物語のあとは、「思ふやうなる木もてまいりたり(思い通りのすばらしい木を持って参った)」ということで恩賞を賜ったものの、「からくなりにき(かえってつらくなってしまった)」という繁樹の苦い述懐で締めくくられています。紅梅の主からすれば強奪以外の何ものでもなかったことを気づかされ、実行者の繁樹が恥じたという含みです。

  たしかに人の屋敷の花の木を、いかに勅命とはいえ有無を言わさず持って行こうというのは暴挙です。後にそれを恥じる心を持っている繁樹という人物が、ついそのような挙に出たのは、そこが西の京であったからであろうと思われます。
     
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  西の京・右京は朱雀大路の西側、都の発展史でいえば後発地域でした。大雑把に言って左京地区の内裏に近いほどが上級貴族の居場所になることが多く、朱雀大路を南へ下るほど、そして西へ逸れるほど、平安中期までは下層の地域であったといえます。梅の木を始め「ひと京(=都じゅう)探して見つからなかったのだが、西の京のとある家に(紅梅を見つけた)」とあるのは、「西の京」が当時も都の第一エリアには入っていなかったことを示すでしょう。そうした地区にある家は権門の屋敷であるはずもなく、ついつい遠慮を忘れたということなのでしょう。

  西の京で見つけたという梅に付いて来た和歌に帝も驚きます。礼儀はあくまでも正しく、底に厳しい批判があるような無いような、露骨には見せない怖さを風雅に包んだ力量は並大抵のことではありません。西の京あたりにこんな歌を詠む者がいる。正体を知って納得されたことでしょう。
      
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  貫之の娘が住んだという屋敷の所在は詳らかではありません。『無名秘抄(上)』には「或人云、貫之がとしごろすみける家のあとは、かでのこうぢよりは北、とみの小路よりは東のすみなり」とあるそうです。

  紀氏は古代からの名家です。この挿話の時代の一世代前の人紀貫之は、初めての勅撰和歌集『古今和歌集』の撰者として文名を馳せました。しかし権勢からは遠い一族です。歴史物語の筋を常に動かす藤原氏などとは違って派手な表舞台に登場することはありません。その紀氏は西の京のつましい屋敷に、しかし都のどこにもないほどの見事な梅をいつくしみ、鶯の歌を楽しみながら、穏やかに暮らす文化の豊かさを保っていたのだ、と「大鏡」を読む人々に思わせた逸話でありましょう。

  梅の持つ清雅なたたずまいにはこうした奥行きのある物語が似合います。砕けたところで、花言葉でも「忠実」「高潔」「上品」「忍耐」などが挙げられています。
      
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3 余録

  この逸話について、『拾遺和歌集』は同じ歌を採って少し違った展開を記録しています。

  内(=朝廷)より人の家に侍りける紅梅を掘らせ給ひけるに、鶯の巣くひて
  侍りければ、家の主の女、まづかく奏させ侍りける

   勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかに答へむ

  かく奏させければ掘らずなりにけり。
               (「拾遺和歌集」巻九雑下 531 詠み人知らず)

  ここでは掘らずにやめたというお話になっています。この時期に清涼殿に新しい紅梅が植えられたのは『大鏡』にあるとおり確かなことらしく、それが果たして紀内侍の紅梅であったのか、そうでなかったのか、両説あるということになりましょう。しかし『大鏡』も『拾遺和歌集』も、記述者が注視しているのはこの和歌そのものです。ことの結末ではありません。愛着のある梅の木を失おうとする時、咄嗟に詠んだこの歌の見事さを伝えようとするのが、両作品ともに、採録の意図だったものと思われます。見事な歌の効用で難題が解かれたり事態が好転するというのは歌物語の定型です。『拾遺和歌集』の時代は『伊勢物語』『大和物語』をはじめとする歌物語の盛んな時期にあたり、ここの記述もまことに歌物語風のファンタジーに作られているように窺われます。
      
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【文例】 漢詩・漢文

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