2008年2月15日

第28回 よき提言とともに:涅槃会、先達の教え、どのような自分でありたいか


               20.2.10東京都清瀬市柳瀬川

1 春の雪

  立春を過ぎましたが厳しい寒さに見舞われております。去年は特に暖冬ではありましたが、今頃はもうそれぞれの庭先に梅が開き、このあたり一帯が芳しい 春の香りに包まれていました。東京にシーズン初めての雪を見たのは3月中旬になってからでした。春の沫雪でした。今年はと言えば、我が家の庭はまだ蕾も固 く休眠中です。

  旧年秋における暖冬の長期予報は12月中にすでに外れ出して、今期はもう9回の降雪、5回の積雪を記録しています。最近では2月9日の雪には驚きまし た。夕方降り出して、白木蓮の花びらのような大きな雪でひとしきり降って、いっときの間にあたりは見る見る深く埋められてゆきました。この夜は車で出かけ かけたのですが、悪くすれば立ち往生しそうな危険を感じたので、早々に諦めて還って来ました。時節は春の雪と言いながら、情感を賞でる余裕を許さない盛ん な雪でした。大降りは一晩だけでしたが、まだ日蔭には残っています。



                20.2.9東京都清瀬市雪の夜景

  2月の上旬までに5回以上雪が降るのは1972年以来のことだそうです。折々の雪の御陰でこの冬は季節特有のひどい乾燥が例年よりは緩和されて います。そのせいでしょうか、これも蔓延が危惧されていたインフルエンザの流行をさして耳にしません。天気予報が外れると、インフルエンザ流行の予測も狂 うのでしょうか。

  このたびは雪中閑話ということで参りましょう。



                20.2.1東京都清瀬市


2 年中行事 仏涅槃会(ねはんえ)

   遠くみそらに楽の音[ね]すみて
   沙羅のはやしは花咲きみてり
   あはれ尊[たふと]き大御姿[おほみすがた]
        「涅槃会の歌」(詩 芳賀莞爾)より一番

  仏教では2月の中旬15日に涅槃会(ねはんえ)を営みます。涅槃とはニルヴァーナの訳語で、本来は迷妄が去り悟りの境地に到ることを指しますが、涅槃会という時は直接には釈迦の入滅(にゅうめつ・死去)を意味し、この日釈尊を追慕し、遺徳を偲びます。

  釈迦は紀元前5世紀(BC463年頃)、現在のネパールに釈迦族の王子として生まれました。多才の資質にも恵まれて、豊かな不自由のない生活が生涯に わたって約束されていましたが、29歳でその一切を抛(なげう)って出家の道を選びます。35歳で正覚(悟り)を開き、仏陀(覚者)となりました。仏教で はこれを成道(じょうどう)と言います。仏陀は自らの悟りを人々に説いて衆生の救済に努める日々を送り、入滅は80歳のときであったかと言われています。 釈迦の伝記について最も詳しいのが「長阿含経」や「大般涅槃経」に記録されたこの入滅直前の一年です。

  それでもなお釈迦の入滅は正確な日付の記録がありません。南伝仏教ではインド暦ヴァイシャーカ月の満月の日であったと伝わり、ヴァイシャーカ月が古代 インドの第2番目の月であることから中国を経由して来る時に2月15日という日付に定まりました。もちろん陰暦の2月でしたが、今日では現行暦の2月15 日にこの法会は行われています。陰暦に比較的近いということでひと月送って3月15日と決めて営む寺もあるようです。

  法要中は、仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、『仏遺教経』を読誦することが通例です。「涅槃図」とは釈迦が娑羅双樹の下で涅槃に入られた際のお姿を写した絵 です。頭を北にして西を向いて横たわられた釈尊の周りに、十大弟子を始め諸々の菩薩・天部やさまざまな動物、虫などまで集まり、お別れを悲しむさまが描か れたものです。この涅槃図の絵解きを行うことを法会の慣習にする寺もあります。わかりやすい布教活動になるのでしょう。
  「涅槃会」の伝統は古く平安時代の『三宝絵(さんぼうえ)』の中でも「年中主要法会」のひとつとして記されています。当時は山階寺の涅槃会がとりわけ有名であり、ここの法会は常楽会(じょうらくえ)という特別な呼称で呼ばれていました。



   「仏涅槃図」高野山金剛峯寺は現存する国内最古の涅槃図。
   平安後期 応徳3年の作であることから、別称応徳涅槃図


3 どのような自分でありたいか

  独りで行くほうがよい。孤独[ひとり]で歩め。
  悪いことをするな。
  求めるところは少なくあれ。
  林の中にいる象のように。
        『ブッダの真理のことば、感興のことば』中村元(岩波文庫)




  釈迦の教えは弟子によって多くの経典にその事跡が収められ、知ろうとすれば膨大です。その中には、キリスト教の「聖書」もそうであるように、信仰を同 じにしなくとも興味深く耳を傾けることができる箴言が満ちています。そもそも優れた先達の言葉を聞き、考えを知ろうとするのは人間の智慧に違いありませ ん。それは神・仏を求めるよりはるか手前の事柄です。




  いろいろな分野にそれぞれの理想に向かうための提言を見ることができます。たとえば、トランペット奏者のW.マルサリス[ウィントン・マルサリス(Wynton Marsalis:1961.10.18〜)]はこんなことを考えていると言います。

  W.マルサリスの提言12条

1.助言をしてもらおう。譬え一流になっても常に学ぶ姿勢を持つこと。
2.すべては基本の上にある。常に基本をチェックすることで迷いが少なく
  なる。
3.達成日の目標を立てよう。
4.気持ちを集中すること。
5.じっくりと練習すること。通常の早さよりテンポを落として練習すること
  で指先や筋肉に本來のリズムが戻る。
6.苦手な部分ほど反復せよ。
7.曲の隅々まで気を配れ。
8.失敗から学び、また頑張れ。よしまた頑張るぞといふタフな精神が大切だ。
9.ひけらかすな。技を自慢するより中身を充実させることが進歩に繋がる。
10.自分で工夫せよ。自分に合った練習方法を考え出すこと(個性)。
11.楽觀的になること。人生は考え方次第だ。明るくなれば楽しいし、暗くな
れば辛くなり、よい演奏もできない。
12.他分野の共通点に注目。一つの分野の情報のみに頼らず、多くの分野から
学ぶことが自分をより一層高めてくれる。

  W.マルサリスは演奏者であるとともに熱心な教育者です。TV番組で子どものための音楽教室を見たことがあります。実演を交えながら、上記の考えを肩肘張らない言葉で子どもたちに伝えていました。

  それにしても、この12箇条を改めて眺めてみると音楽の練習を越えて万能のアドバイスのように見えませんか。目標を持った時、物事がうまくいった時、 失敗した時、それぞれどのようにすればよいか。またそれらを通して、常にどのような自分でありたいかを模索する姿が透けて見えます。マルサリスの奏者とし ての成長の歴史と、その人柄とによって、彼の言葉の説得力は高まっているのです。




  アメリカが人気者の黒人候補を擁して大統領候補を選出するお祭りで湧いています折から、いささか通じる人物の言葉をもう一つ、御紹介しましょう。一説 にIQ200と恐れられる現代アメリカの賢者コリン・ルーサー・パウエル(Colin Luther Powell:1937.4.5〜)の言葉です。
  湾岸戦争の英雄であり、また温厚で奥行きのある人柄が国民的に絶大な信頼を得ている人です。国務長官時代の2003年、国連の議場で行われた対イラク 戦争の正当性を訴える演説は、あの時点でも決して勇んだものではありませんでした。むしろ荘重な悲しみを帯びて響き、止むなしとする戦争に向かうアメリカ が何となし大人らしく見えたことでした。役目を遂行するための計算があってもなくても、あのような演説が出来る人はただ者ではないと感じさせられたもので す。
  この人が立てば必ずアメリカで初の黒人大統領になるだろうと言われ始めたのは、パウエルがまだかなり若い頃でした。しかし、そうなれば、おそらく暗殺 されるだろうという物騒な予測もあり、周囲は決して出馬に同意しないのだという噂です。一部にはどこまでも根強い有色人種差別があるのです。有能で人の信 頼も厚いパウエルも、自分ではどうすることもできない弱者の一面を背負っています。

   コリン・ルーサー・パウエル(Colin Luther Powell)のモットー

第1 世の中、まんざら捨てたものではない。
   特に、物事を前向きに考えるなら午前中である。
第2 何でも我を忘れてやれば、必ず克服できる。
第3 自分の立場と自尊心を混同するな。
第4 やって出来ないことはない。
第5 何でも注意深く選択せよ。
第6 よい方向に向かっている時には、それに水を注(さ)すようなことを必
   ず言うやつがいるが、惑わされるな。
第7 他人の運命を決めることはできないのだから、自分の運命を他人に任せ
   ることはない。
第8 小さなことも見過ごすな。
第9 成果は仲間と分かちあえ。
第10 いつも冷静で親切であれ。
第11 ビジョンを持ち、その実現には貪欲であれ。
第12 自分の心に巣くう恐怖心や他人の否定的見解にたじろぐな。
第13 常に楽観的であることは、自分の力を倍増する。
 追加 よい行いは必ず人の目に触れる。

  こうした提言にはいろいろ共通点もあり、違うところがあります。発言者のそれぞれの個性によって同じ言葉も違う響きで伝わったりします。このような訓 戒は、本来自分自身のための言葉なのだろうと思います。人に示すのではない、自分にかくあれとして、まず言葉になるのでしょう。そうでなければ陳腐なお説 教です。人の言葉を第三者が自分の指針にも用いることができるというのは、言葉を受け取る側が発言者に信を置き、尊敬できるという関係でなければ効力はあ りません。その意味で、校訓などというものも、生徒がその学校を尊いものと信じられる関係でなければ無効なのだろうと思います。




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