第32回 ゆく春:すみれ・かたかご・チューリップ・たんぽぽ・残りの桜・落花・春の鳥
つぐみ 20.4.11東京都清瀬市
1 清明
時は春
日は朝
朝は七時
片岡に露みちて
揚雲雀[あげひばり]なのりいで
蝸牛[かたつむり]枝に這ひ
神、そらにしろしめす
すべて世はこともなし
「春の朝」(ロバアト・ブラウニング 訳詩 上田敏『海潮音』)
あたたかな陽ざしに川の水もすっかり温み、『古今和歌集』の表現を借りるなら「花の紐解く」ばかり、次々とさまざまの花が開く春です。ブラウニングが
朝7時の陽光を快活に歌い、孟浩然が鳥の声にまどろむ朝寝を歌うのもこんな時期なのでしょう。陰暦では晩春三月の半ばになりました。春分から15日目、今
年の暦では4月4日(陰暦に直すと3月8日)が、二十四節気でいう清明(せいめい:清浄明潔の意)にあたります。春の穏やかな陽を受けた自然界の息吹のす
がすがしさを表す節気です。
20.3.27 東京都清瀬市
2 春の雨
古くはこの節気、清明が農耕の幕開けの目印になりました。二十四節気において、清明の次の節気は穀雨(こくう:現行歴4月20日、陰暦の3月15日) です。ここにしばらく続く春の雨の時期があることが意識されていたようです。前年の秋に蒔いた麦が伸び、清明の頃に蒔いた籾が稲の苗に育つ時期です。農耕 にかかわる人には恵みの雨です。農耕に直接は携わらなかった階層には、たとえば平安時代の貴公子在原業平の生涯を伝えるという『伊勢物語』などでは、この 時期の長雨は春愁を包む温かい雨です。
起きもせで寝もせで夜を明かしては 春のものとてながめくらしつ
(横になったまま起きもせず、眠りもしないで世を明かし、明けたあとは
また、いかにも季節のものと思いながら、降りこめる雨をぼんやりと眺
めて、日が暮れるまでもの思いにくれて過ごしてしまった。)
『古今和歌集』616在原業平(『伊勢物語』二段)
ながめは「長雨」と「眺め」の掛詞(かけことば)。古典の詩歌に「ながめ」が使われるときは、おおかた掛詞になっていると見て間違いありません。古典 語の「眺め」は現代語でいう「眺める」の動作と、そのように動作しているときの心の内、ものを見るともなくぼんやりと遠くに視線を遣りながらもの思いに耽 るという意味を併せ持っています。
『伊勢物語』二段によれば、業平にはこの時「西の京」にすむ恋人がいました。その女性はたいそう容姿も優れていたが「かたち(容貌)よりは心なむまさ りたりける」人であったと、そして夫がいたらしいことを物語はほのめかしています。この歌は、まさに忍び会って帰って来た朝のものとして読まれています。 これ以上の事情は分かりません。西の京、右京は平安京の後発地域、業平の当時はまだ寂しい地域で、権門の貴族にはあまり縁のない一帯だったはずです。美貌 で、さらに心はその美貌以上だと業平が惹かれたその女性は、皇族筋の業平とはおそらく身分のかなり隔たった人だったのではないかと想像されます。人妻で あったかもしれず、とかくままならない恋だったのでしょう。温かい雨がやるせない春の愁いに重なります。
20.4.9 東京都清瀬市
穀雨が過ぎるとやがて陰暦三月も終わり、春が終わります。
けふのみと春を思はぬ時だにも立つことやすき花のかげかは
(今日だけで春が終わるのだと思わない時でさえ、簡単に立ち去ることが
できる花の蔭であろうか。まして春の終わりの今日、散りゆく花の蔭の
なんと離れがたいことだろう。)
「古今和歌集」134 凡河内躬恒
2008.4.8 東京都清瀬市
寒さの時期から待ち続けた季節、花に満ちた春。人間の若い時にたとえられる季節でもあります。春を愛する心はいにしえからひとり我が国だけのものではありません。行く春を惜しむ数々の優れた詩歌が漢詩にも西洋の詩にも残っています。
漢文の世界では、三月の終わり、すなわち春の終わりを哀惜する気持ちを込めて「三月尽(さんぐゑつじん)」という題が詩の定番になっています。今年の カレンダーに重ねると、5月5日が立夏(今年は陰暦4月1日にちょうど重なりました)、その前日の5月4日(陰暦3月29日)が春の最終日、三月尽という ことになります。
20.3.27 東京都清瀬市
3 花ざかりの森
さて、暦の上では春長(た)けて、盛りを過ぎてゆきますが、里の桜がおおかた終わるこの頃、少し奥まった森や高山の峰は盛んな花の季節を迎えます。桜や辛夷の花が天蓋になって木暗い足下に、数々の野草がかわいらしい花を小さく付けてけて咲き出します。
20.4.6 東京都清瀬市
カタクリ 20.3.27 東京都清瀬市
地には
草があり
木には
葉があり
それから風は
音を立てた
とても清らかな
楽しさで
かくわたくしは
仕合わせだった
この上なしの仕合せだった
花のある杜では!
「花のある杜[もり]」(佐藤春夫)より抜粋
森のスミレやタンポポ、カタクリ、アマナ、名も知られない小花の数々が、可憐にその春を謳ううちに、あたりは新緑の季節に向かいます。
20.4.5 東京都清瀬市