2008年7月15日

第38回 季節は移って:大野晋先生御逝去

第38回【目次】

第38回 季節は移って:大野晋先生御逝去


                    20.7.13 東京都清瀬市

1 夏の別れ

  梅雨が明けて、関東は真夏日が続いています。いかがお過ごしでしょう。
  6月半ばに近所の川に生まれた鴨の雛は、きょうだいたちと毎日のように愛らしい姿を見せて沿道の散歩の目を楽しませてくれていました。日に日に大人ら しく明らかに姿を変えてゆき、その成長の速さには驚かされる毎日でしたが、7月7日という日以来ぱったり見かけなくなりました。散歩で知り合ったバードウ オッチングの方によれば、時期が来て、家族で川を下って行ったのだそうです。そうとも知らず、さよならも言わないでしまいました。


                 20.6.30 東京都清瀬市柳瀬川


                 20.7.7 東京都清瀬市柳瀬川

  子鴨の姿は見えなくなりましたが、この川沿いにはやはり春に生まれた若い小鳥の姿があれこれと見られます。カワセミは「翡翠」と当てられる文字の通 り、鮮やかに深い青色をして、堤の森の人気者です。朝や夕方、散歩しているとよく通る高い声が木々の茂みの梢から響いて来ます。もともと頭が大きめのバラ ンスで、はっきりした顔立ちの、言ってみれば童顔の小鳥ですが、このごろよく見かける姿は小ぶりでどうやら子供のよう。いっそう愛嬌があります。


                20.7.10 東京都清瀬市柳瀬川堤

  今年は入梅の知らせの前にたびたび大雨が降り、梅雨入り後はさして雨らしい雨もないまま、夏の暑さは早々に訪れたものの、なかなか梅雨明けは告げられ ませんでした。その厳しく暑い7月14日、国語学者大野晋先生の訃報が飛び込んでまいりました。お側で仕事をしてきた私達には突然の悪い夢のようでした。8月のお誕生日のお祝いを仕事の仲間で調えていた最中のことでし た。享年88歳。御高齢ではありましたが依然多くの御仕事を抱え、精力的に研究にあたる現役の研究者でいらっしゃいました。


                    20.7.13 東京都清瀬市

2 大野晋先生の御こと

  先生との御縁は私が学習院大学に入学した年に始まり、すでに30年を超えます。岩波書店から出ていた『日本語をさかのぼる』は私の高校時代、昭和40年代 の終わりに推薦図書であった記憶があります。あの頃先生は五十代半ば、朝日新聞やNHKの番組に取り上げられることも多く、社会的にはおそらく最も華々しく活躍 されていた国語学者でした。入学して、その大野晋先生が新入生相手のごく初歩的なレベルの授業も当たり前にお持ちになり、手取り足取りの指導をなさるのを、当時ほかの大学に進学した高校時代の同級生や私と同世代の従兄弟たちなどは、はじめ信じられないようであり、事実と分かるとたいへん羨ましがったものでした。



  一年生の必修授業の『万葉集』の時間、次々と当てられた学生の歌の現代語訳がことごとく不合格として退けられ、「この学年は相聞歌(恋の歌)解釈不能症である」と嘆かれた。同窓会がある度に誰かが持ち出す懐かしい笑い話ですが、今ふりかえれば、十代の学生の限界をよく表すエピソードであったと改めて思 います。入学当時、怖い先生の御授業に堪える言葉の勉強をしようと『岩波古語辞典』を熱心に読んでいた人は結構いました。あるだけ全部の知識を示したくなるのは若い時の常です。辞書の記述を切り貼りしたような、やたら詳しいばかりの生硬な訳は大人から見れば実に滑稽だったことでしょう。恋歌にはほど遠いものでした。そんな未熟な者たちを相手にも、先生は第一線の研究成果を惜しみなく分けて下さいました。そして、拙い思いつきにも耳を傾けて下さり、こちらにそれを活かす能力があってもなくても、先生はお構いなしに最高度の最善の助言を下さいました。


                    20.7.11 東京都清瀬市

  大野晋先生の存在は高校を終えたばかりの何者でもない多くの学生をあっという間に言葉への興味に引き寄せ、日本あるいは日本人というものを考えさせ、 学問の入り口に立たせる不思議な引力でした。何かを知りたくなって調べて勉強することが、楽ではないけれど面白くてやめられない、そんな心持ちになり、大学院で大野先生の演習を履修した学生は、ひとコマの演習のために週の大半を費やし、前日は徹夜になることがしばしばでした。言葉の謎を解くことはこの世の秘密に迫ることのような気さえして、勇んで用例のカード採りに勤(いそ)しみました。厳しく、ときに恐ろしい先生でしたが「努力は認める」というのが常々の御言葉でした。私のような凡庸な学生もそこに安心して励むことができたのです。


                    20.7.11 東京都清瀬市


                    20.7.2 東京都清瀬市

  基礎語を詳しく解説した古典語辞書を作りたいというお考えは『岩波古語辞典』が刊行された直後からのものだったそうです。学校の門を出るとき著者に加えて頂き、紆余曲折がありながらその辞書は来年刊行という段まで漕ぎつけたところでした。26年目です。完成を見ずに旅立たれたことをまことにつらく思う 一方で、これは始めからこうなるしかなかった仕事であったようにも思えます。先生はこの辞書に手を入れ続けられて、これでもうよしということがありませんでした。お直しになれなくなるまで終わることができない仕事であったという気がしてならないのです。

  古典語辞書の仕事は当初大野研究室が事実上の事務所でしたから、私は学籍を離れてからも先生が定年で御退任なさるまで頻繁に学習院へ通いました。急の訃音にふれて、しきりに思い出すのは、なぜか最近のお姿ではなく、その大学を仕事場にしていた遠い春の頃、背広の肩に桜の花びらを乗せたまま歩かれる先生の後ろ姿です。少し後について歩きながら、多分何かの単語のお話をしながら、目にはそんな桜のお背中が映っていた記憶が幾通りもあります。何年も春ごとに同じようなことがあったのかもしれません。年々歳々言葉のことに明け暮れていました。万朶の花の下を行きながら花の風情も当時は心になく、季節を思うこともなく、ただ当面の書きかけの単語に執して歩いていた時の残像ですが、今ありありと浮かんで懐かしく 悲しい。かなしいとは、自分の力ではどうすることもできない切なさをいうということも、先生の『岩波古語辞典』から教わりました。謹んで御冥福をお祈りいたします。


                   19.7月 東京都東村山市

         花はちすいとしも色のきよかれと
         一(ひと)むらさめや降りかゝるらむ
                         比田井小琴


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