第45回 長い夜:秋の夜・秋夜・長月・神無月
第45回【目次】
第45回 長い夜:秋の夜・秋夜・長月・神無月
1 神無月
20.10.27 東京都清瀬市
月日は陰暦でいう長月から神無月に移ったところです。陰暦九月長月は、日が短くなって夜がしみじみ長くなったと感じられるところから付いた名前だと言われます。いわゆる"秋の夜長"を表す名称ということでしょう。現在のカレンダーに重ねると、今年は10月28日が長月末日、29日が神無月の朔日でした。
神無月 秋ふけにけり
野の径[みち]に
春の日の白き花 青[あを]き実となり
風たちてうすれ日かげり
蝶[てふ]舞はず
卓に来て蛾[ひとりむし]重く翅[は]ばたき
佐藤春夫「神無月」第1聯
月の異名の中で「神の無い月」という表記が一般に用いられる陰暦10月の由来話のおもしろさは際だっています。この時期には八百万の神々が出雲大社に参集するため、出雲以外の諸地域は神様が留守になるというお話です。月名「かんなづき」が当て字通りに「神無し月」なのかどうか(古代には今日の格助詞「の」に相当する「な」という助詞もあります。神名にはよく入っています)、語の起源として「神無し月」が本当に正しいのかどうかはさておき、その起源説話と符丁を合わせるように、いつ頃からか、出雲に限ってはこの月に神有月という別名も使われるようになりました。
2 星の林のさやかなる
日本古来の「神」は、周知のとおり、おおらかな多神教の神です。『古事記』や『日本書紀』に見る神々の姿は、それぞれ個性があって慈悲深くあったり短気であったり、自分自身過ちを犯すことも珍しくありません。イスラムやキリスト教世界の峻烈な絶対神と日本神話やオリンポスの愛すべき「神々」とは別の呼び名であっても良いのではないかと折々思います。さて、この秋の夜、一神教の神を奉じる人々は、長い夜の美しさにも深さにも、造物主の意志を読み、造物主への感謝を介してはじめてこの世の自然に対峙します。
でうす共に明かし奉るべきことを望み、如何なる秋の夜の長きをも長しと
覚えず、明けなんとするを苦しむ也[なり]。月朗らかに風涼しく、
星の林のさやかなるを眺むれども、更にうき世の人の眺めに等しからず、
御作者の艶[みやびや]かなるしるべとする也[なり]。
ルイス・デ・グラナダ『ぎやどべかどる』
『ぎやどべかどる』は慶長4年(1599)に我が国で出版されたキリシタン文書の翻訳本です。ルイス・デ・グラナダ(1504〜1588)はエスパニア(スペイン)グラナダ生まれのドミニコ会修道士です。この時代に日本からエスパニア経由でローマに渡った天正遣欧使節とも会った記録があります。翻訳者はおそらく修道士であったでしょうが、名は残っていません。もともとひっそりとキリシタン施設の中で翻訳され、印刷出版された書物です。誰とも分からない訳詩者の言葉ですが、ここには一度聞けば忘れられない美しい響きがあります。ここで言う「御作者」とは造物主、つまり神のこと。一途な信仰が、目に見るもの、膚に感じるものの気配すべてを神秘の美しさに変えるのであろうことを私たちに教えます。当時最も新しかった西洋の言語を移すのに、実に典雅な古典表現が用いられているのにも、敬虔な心が感じられます。
20.10.27 東京都清瀬市
安土桃山時代、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬春信、大村純忠は、4人の信徒少年(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)をローマに派遣しました。世に天正遣欧使節と呼ばれる一行です。彼らは1582年2月に長崎を出航し、困難な航海を経て二年がかりで1584年ポルトガルのリスボンに到着しました。ヨーロッパではポルトガル・スペイン・イタリアと行く先々で温かい歓迎を受け、一行はキリスト教文化を心地よく享受して帰途に就きますが、彼らが日本を離れている間に日本の信教環境は大きく変化していました。
天正15年6月19日(1587/7/24)に発令された豊臣秀吉の「伴天連追放令」によって、すぐには母国に入ることもできず、マカオで2年を待ち、故郷長崎に戻ることができたのはリスボンを出航した4年後になりました。
西洋の文物に最も早く触れ、西洋文化を直接伝達し得た日本人であったはずの彼らですが、帰国後の運命はそれぞれに過酷なものでした。次第に強まるキリシタン弾圧の世情の中で、千々石ミゲルは棄教、司祭伊東マンショは長崎のコレジオ(神学校)で病死、同じく司祭となった原マルチノはマカオに追放され、その地で客死。中浦ジュリアンは長崎で捕えられ殉教しました。これはまだ関ヶ原以前のことです。その後、江戸時代を通してキリスト教は厳しい弾圧の対象でしたが、決して絶えることがなかった強さは、これが八百万の神の信仰ではないからには違いありません。
ルイス・デ・グラナダは、天正遣欧使節の4人が希望に満ちてヨーロッパにいた時の、幸福な少年時代の記憶の中の人です。雄弁な説教者であったことが知られ、多数の著作がありますが、その中のいくつかは日本にも持ち込まれ、伊東マンショが奉仕したようなコレジオ・キリスト教施設の中で翻訳され、ひっそりと出版されました。『ドチリナ・キリシタン』、『黙想録(メディタシオン)』といった翻訳本は当時の日本語を音声的に復元できるところから、我が国の中世の国語学的資料としてもまことに貴重な遺産となったのです。
さて、秋の夜長を名前にしたといわれる長月は過ぎましたが、日の出から日没までの時間が最も短い冬至は12月20日過ぎですから、日は冬至まで更に短くなり、夜はなお長くなっています。まさに燈火親しむべき頃が続きます。
第45回 長い夜:秋の夜・秋夜・長月・神無月
1 神無月
20.10.27 東京都清瀬市
月日は陰暦でいう長月から神無月に移ったところです。陰暦九月長月は、日が短くなって夜がしみじみ長くなったと感じられるところから付いた名前だと言われます。いわゆる"秋の夜長"を表す名称ということでしょう。現在のカレンダーに重ねると、今年は10月28日が長月末日、29日が神無月の朔日でした。
神無月 秋ふけにけり
野の径[みち]に
春の日の白き花 青[あを]き実となり
風たちてうすれ日かげり
蝶[てふ]舞はず
卓に来て蛾[ひとりむし]重く翅[は]ばたき
佐藤春夫「神無月」第1聯
月の異名の中で「神の無い月」という表記が一般に用いられる陰暦10月の由来話のおもしろさは際だっています。この時期には八百万の神々が出雲大社に参集するため、出雲以外の諸地域は神様が留守になるというお話です。月名「かんなづき」が当て字通りに「神無し月」なのかどうか(古代には今日の格助詞「の」に相当する「な」という助詞もあります。神名にはよく入っています)、語の起源として「神無し月」が本当に正しいのかどうかはさておき、その起源説話と符丁を合わせるように、いつ頃からか、出雲に限ってはこの月に神有月という別名も使われるようになりました。
2 星の林のさやかなる
日本古来の「神」は、周知のとおり、おおらかな多神教の神です。『古事記』や『日本書紀』に見る神々の姿は、それぞれ個性があって慈悲深くあったり短気であったり、自分自身過ちを犯すことも珍しくありません。イスラムやキリスト教世界の峻烈な絶対神と日本神話やオリンポスの愛すべき「神々」とは別の呼び名であっても良いのではないかと折々思います。さて、この秋の夜、一神教の神を奉じる人々は、長い夜の美しさにも深さにも、造物主の意志を読み、造物主への感謝を介してはじめてこの世の自然に対峙します。
でうす共に明かし奉るべきことを望み、如何なる秋の夜の長きをも長しと
覚えず、明けなんとするを苦しむ也[なり]。月朗らかに風涼しく、
星の林のさやかなるを眺むれども、更にうき世の人の眺めに等しからず、
御作者の艶[みやびや]かなるしるべとする也[なり]。
ルイス・デ・グラナダ『ぎやどべかどる』
『ぎやどべかどる』は慶長4年(1599)に我が国で出版されたキリシタン文書の翻訳本です。ルイス・デ・グラナダ(1504〜1588)はエスパニア(スペイン)グラナダ生まれのドミニコ会修道士です。この時代に日本からエスパニア経由でローマに渡った天正遣欧使節とも会った記録があります。翻訳者はおそらく修道士であったでしょうが、名は残っていません。もともとひっそりとキリシタン施設の中で翻訳され、印刷出版された書物です。誰とも分からない訳詩者の言葉ですが、ここには一度聞けば忘れられない美しい響きがあります。ここで言う「御作者」とは造物主、つまり神のこと。一途な信仰が、目に見るもの、膚に感じるものの気配すべてを神秘の美しさに変えるのであろうことを私たちに教えます。当時最も新しかった西洋の言語を移すのに、実に典雅な古典表現が用いられているのにも、敬虔な心が感じられます。
20.10.27 東京都清瀬市
安土桃山時代、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬春信、大村純忠は、4人の信徒少年(伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノ)をローマに派遣しました。世に天正遣欧使節と呼ばれる一行です。彼らは1582年2月に長崎を出航し、困難な航海を経て二年がかりで1584年ポルトガルのリスボンに到着しました。ヨーロッパではポルトガル・スペイン・イタリアと行く先々で温かい歓迎を受け、一行はキリスト教文化を心地よく享受して帰途に就きますが、彼らが日本を離れている間に日本の信教環境は大きく変化していました。
天正15年6月19日(1587/7/24)に発令された豊臣秀吉の「伴天連追放令」によって、すぐには母国に入ることもできず、マカオで2年を待ち、故郷長崎に戻ることができたのはリスボンを出航した4年後になりました。
西洋の文物に最も早く触れ、西洋文化を直接伝達し得た日本人であったはずの彼らですが、帰国後の運命はそれぞれに過酷なものでした。次第に強まるキリシタン弾圧の世情の中で、千々石ミゲルは棄教、司祭伊東マンショは長崎のコレジオ(神学校)で病死、同じく司祭となった原マルチノはマカオに追放され、その地で客死。中浦ジュリアンは長崎で捕えられ殉教しました。これはまだ関ヶ原以前のことです。その後、江戸時代を通してキリスト教は厳しい弾圧の対象でしたが、決して絶えることがなかった強さは、これが八百万の神の信仰ではないからには違いありません。
ルイス・デ・グラナダは、天正遣欧使節の4人が希望に満ちてヨーロッパにいた時の、幸福な少年時代の記憶の中の人です。雄弁な説教者であったことが知られ、多数の著作がありますが、その中のいくつかは日本にも持ち込まれ、伊東マンショが奉仕したようなコレジオ・キリスト教施設の中で翻訳され、ひっそりと出版されました。『ドチリナ・キリシタン』、『黙想録(メディタシオン)』といった翻訳本は当時の日本語を音声的に復元できるところから、我が国の中世の国語学的資料としてもまことに貴重な遺産となったのです。
さて、秋の夜長を名前にしたといわれる長月は過ぎましたが、日の出から日没までの時間が最も短い冬至は12月20日過ぎですから、日は冬至まで更に短くなり、夜はなお長くなっています。まさに燈火親しむべき頃が続きます。
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