第31回 花の季節2:花・桜
20.3.31東京都清瀬市柳瀬川
1 花というもの
フランスの文豪バルザック(Honor de Balzac オノレ・ド・バルザック1799〜1850)は次のように語ります。
自然界で、花ばかりは常によいもので、決して悪い扱いを受けないことを考える
と、どんな人も花を愛さずにはいられない。(中略)何かにつけて私どもの暮らし
に加わり、弥撒(ミサ)にも行くし、舞踏会にも行く。公共の生活の中では広場や
記念像を飾るし、あらゆる権力を神聖なものにする。王権、民主いずれの主権も花
無しにすませたためしはなく、時にはパンも買えないような人たちが花を買う。花
は不幸な人たちにとっては幸福そのものである。 (串田孫一訳)
花は時に幸福そのものである。花は現実の飢渇を越えて心を満たすものになると言う。その花の中でも、日本人は古来桜をとりわけ愛して参りました。それを物語るように、万葉の昔から現在まで、春にはさまざまの桜の歌が満ちています。去年の今頃にも一端を御紹介致しましたが(連載第7回「花の季節」)、こ
のたびはその桜の詩文の続編です。
20.3.27東京都清瀬市柳瀬川
2 満開の桜の下で
気象庁は3月27日に東京の桜を満開と発表しました。去年より9日早い満開です。
気温の条件は開花してからの桜にも作用すると言います。今年は日本列島広い地域にわたって一日の寒暖の差が割合大きい春を迎えているとのこと。日中は温暖 でも朝夕が肌寒いこのような陽気の場合、桜は開花してから散るまでが比較的長くなると言うことです。一斉に咲いて瞬く間に散るのがこの花の本領とはいえ、 一年一度の桜の時期を少しでも長く楽しめるのは幸せなことです。
花を見る時は こゝろいとたのし。
心たのしきは 花のめぐみなり。
「花月」『小学唱歌集 第三編』明治17年(1884)より
20.3.31東京都清瀬市
幽(かす)かな気配から始まって、東風が吹き、氷が解け、野の鳥が囀り、梅が咲き、ゆっくりと歩みを進めてきた春は、三寒四温の時期を過ぎ、桜が開く ことを以てはっきりとその季節を宣言します。万朶(ばんだ)の桜は待っていた春の喜びを象徴するにまことにふさわしい花です。花と言えば桜、花の中の花として桜が挙げられるのはもっともなことでしょう。
しかし、私ども日本人の観桜の歴史は、桜をただ素朴な季節の進行の表象に留めてはおりません。岡本かの子の歌には、
桜ばないのち一ぱいに咲くからに 生命(いのち)をかけてわが眺めたり
などと、力の入った歌もあります。毎年毎年のことなのに、この花の下で人が特別の感懐を抱くのは、桜がいかにも「命」を思わせるものだからなのではないでしょうか。
20.3.27東京都清瀬市
華々しく開き、眩しく咲いて、ひと時で散る。神話時代から美しい、そして早く散り去ることを特徴に歌われる桜は、命あるものとして、また死と再生を暗示するものとして、人間の運命の傍らに咲いていました。
『源氏物語』の中に、こんな歌があります。
桜こそ思ひ知らすれ 咲きにほふ花も紅葉も常ならぬ世を
(まさに桜が人に教えてくれます。春咲き匂う桜も、秋の紅葉も、
ただひと時の華やぎ。すぐにうつろう無常の世の中であることを)
「総角」
20.3.27東京都清瀬市
この「宇治十帖」と呼ばれる『源氏物語』の第3部は、光源氏もすでに亡くなって久しく、源氏の子として生まれた、実は血の繋がらない息子 薫と、光源氏の孫である匂宮の二人の青年を中心に綴られてゆきます。この桜の歌は、鬱屈が多く感情の瑞々しさのやや足りない性格に造型されている薫に作者が詠ませたものです。その人らしく聊(いささ)か理の勝った出来になっていますが、それだけに、美的に韜晦されることもなく言おうとするところがよく分かります。花ははかないものの譬えになりやすいものですが、とりわけ華やかな桜には、散り去ることにその運命的な悲しさが鮮やかです。この歌は、人も含め、 すべてのものの限りあること、この世に永続するもののないことを、改めて思い知る歌になっています。
20.3.27東京都清瀬市柳瀬川
人の命に確かに限界があるのに対して、桜には、散ることが死に当たるように見えてもそこで終わらない、再生不死のイメージもあります。
ささ波や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな
(かつて近江京のあった志賀の都は、今はその俤もなく荒れ果てて
しまったが、山桜は昔も今も変わらない姿で咲き匂っていることよ)
『平家物語』に語り継がれ、盛者必衰の顕著な例として後世に残ったとおり、平清盛時代を頂点とした平氏の栄花は一時のことでした。この歌は『平家物語』巻七の「忠度都落(ただのりみやこおち)」の章に詳しいエピソードとともに記されています。
清盛没後二年半にして、すでに平家は都を退去しなければならないところまで衰退していました。寿永2年(1183)7月25日、一門都落ちの際に、薩摩守忠度は夜陰ひそかにとって返し、和歌の師であった藤原俊成の邸を訪ねて門外から別れの挨拶をします。忠度が一ノ谷の合戦で敗死するのはそれからわずか 半年後の寿永3年(1184)2月7日、平家の滅亡はさらにその翌年、元暦2年(1185)年3月24日(壇ノ浦の合戦)のことでした。
勅撰和歌集の撰進の最中であった俊成は、忠度に託された歌集の中から「故郷春(ふるさとのはる)」と題された、この「ささ波や」の歌を選んで『千載和歌集』に採りました。追討の院宣をもって追われた平氏であれば、勅勘の身ではありましたが、作者を「詠み人知らず」とぼかして、敢えて集に収めたのでした。
歌に詠まれた山桜は、人の世の栄枯盛衰をよそに、ただ廻り来た春に咲いています。歌を残して死に赴いた歌人の、はかない命が、無心な花に対比されてひときわ悲しく俊成の胸には届いたことと思われます。
20.3.27東京都清瀬市
人の世の定め無さと花の永遠とをもっと端的に歌ったものもあります。
散る花はまた来む春も咲きぬべし 別[わか]ればいつかめぐり会ふべき
(今散る花は、しかし来年の春も再び咲くことだろう。私たちはこうして
お別れすれば、今度はいつ再会することができるだろう。望みのない
ことです)
平家が権力を独占する目前の時期、院の近臣の間に起こった政変に平治の乱(1159)があります。争乱に敗死した首謀者信西(しんぜい)の子らはそれぞれ連座を被って任を解かれ、配流の身となります。詩人西行は、かねて交流のあった成範・脩憲兄弟の運命の変転を案じましたが、どうすることもできず、別れの 歌を贈答しました。この歌は信西(しんぜい)の息、少将脩憲(ながのり)が西行に返した歌で、西行の家集『山家集』に残りました。罪人として流される身はこの先どうなるものかわかりません。人の命は運命に従って、もとよりはかないものです。その傍らに、散り去ってもまた時が来れば咲くと信じられる桜はあたかも不死の命の表象です。
人間の命の限りあることを、限りある一生の「今」をいとしみつつ、春の盛り、明るい薄紅の桜の満開の下で、花の恵みを嬉しく受けながら、年々歳々私たちは確かめているのかもしれません。
20.3.29東京都清瀬市柳瀬川