第68回 秋の空:空 星 月
第68回【目次】
* 漢詩・漢文
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 散文
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
21.10.11 東京都清瀬市柳瀬川
いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう
「夜の葦」(抜粋)伊東静雄
十年ぶりという大きな台風が日本列島を縦断して去って、どこもがすっかり秋になりました。朝夕はもう肌寒くなりましたね。
二十四節気では十月の下旬はもう「霜降(そうこう)」の節気になります(現行暦では今年の「霜降」は10月23日です)。「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」(「暦便覧」)とのことですが、いかにもひんやりとして、寒い季節が迫って来ることを予感させます。
このひんやりした季節に、月がとりわけ美しいのも、紅葉が映えるのも、秋の空がすっきりと澄んで美しいからにほかなりません。
21.10.16 東京都清瀬市
過ぎこし方(かた)を思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方(ゆくへ)知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日(あす)も弧(こ)を描(ゑが)かん、
踊りつつ往(ゆ)かん、
曳(ひ)くひかり、水色の長き裳(も)の如くならん。
「明日」与謝野晶子
日本語の「そら」とは、天と地との間の空漠とした広がり・何もない空間を意味します。同様に天空を表す言葉の「あま・あめ」(天)が天上界を指し、神々の居場所という意味あいで用いられたのに対して、「そら」は本来何にも属さず、何ものも内に含まない、ただ空っぽのエリアを表しました。空を歌う歌が、広い世界に向かって自由であるとともに、どこか頼りなく心細くさせる響きを帯びがちなのは、何ものも無いということのすがすがしい心軽さとわびしさとがなせるのでしょう。
おほぞらを はるばると
旅ゆけど 果もなし
さみしげに きよらかに
わが月は さまよひゆく
「月のメランコリア」柳澤健
21.9.21 東京都清瀬市
何もない空(くう)を意味したところから、転じて精神の虚脱に、更に転じて実意のないこと、本当でないこと、の意味にも使われるようになりました。そらごと(虚言)などと使う時の「そら」がそれにあたります。
このたびは、さまざまな「そら」の中から、主に秋の空の模様を集めて墨場必携に御紹介します。
21.10.18 東京都清瀬市
21.10.16 東京都清瀬市
そろそろ霜も降り出すという霜降ですが、それぞれの節気を更に三つに分けた七十二候の説明を覗くと、霜降の始めは「霜始降(霜降り始める)、豺乃祭獣(山犬が捕らえた獣を並べて食べる)」とあります。冬に備えた営みなのでしょうか。次の五日は「霎時施 (小雨がしとしと降る)、草木黄落 (草木の葉が黄ばんで落ち始める)」とあります。『万葉集』や『古今集』の多くの歌から、秋の紅葉は時雨が染めるのだという考えを看取ることができます。秋の雨と紅葉には因果関係があると、古代の日本人は見ていたのです。七十二候がこの時期の雨と草木黄落、つまりもみじの始まりを、やはり同じ候に納めているのは興味深いことです。そういう季節なのでしょう。
21.10.18 東京都清瀬市
そして霜降の節気の最後の五日は「楓蔦黄(楓や蔦が黄葉する)、蟄虫咸俯(虫がみな穴に潜って動かなくなる)」。自然界の生きものは静かになりを潜めて、いよいよ紅葉の時期になります。空はますます高く澄みのぼり、木々の紅葉を迎える支度は調ってまいりました。
* 漢詩・漢文
* 和歌
* 訳詩・近現代詩
* 散文
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
21.10.11 東京都清瀬市柳瀬川
いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう
「夜の葦」(抜粋)伊東静雄
十年ぶりという大きな台風が日本列島を縦断して去って、どこもがすっかり秋になりました。朝夕はもう肌寒くなりましたね。
二十四節気では十月の下旬はもう「霜降(そうこう)」の節気になります(現行暦では今年の「霜降」は10月23日です)。「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」(「暦便覧」)とのことですが、いかにもひんやりとして、寒い季節が迫って来ることを予感させます。
このひんやりした季節に、月がとりわけ美しいのも、紅葉が映えるのも、秋の空がすっきりと澄んで美しいからにほかなりません。
21.10.16 東京都清瀬市
過ぎこし方(かた)を思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方(ゆくへ)知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日(あす)も弧(こ)を描(ゑが)かん、
踊りつつ往(ゆ)かん、
曳(ひ)くひかり、水色の長き裳(も)の如くならん。
「明日」与謝野晶子
日本語の「そら」とは、天と地との間の空漠とした広がり・何もない空間を意味します。同様に天空を表す言葉の「あま・あめ」(天)が天上界を指し、神々の居場所という意味あいで用いられたのに対して、「そら」は本来何にも属さず、何ものも内に含まない、ただ空っぽのエリアを表しました。空を歌う歌が、広い世界に向かって自由であるとともに、どこか頼りなく心細くさせる響きを帯びがちなのは、何ものも無いということのすがすがしい心軽さとわびしさとがなせるのでしょう。
おほぞらを はるばると
旅ゆけど 果もなし
さみしげに きよらかに
わが月は さまよひゆく
「月のメランコリア」柳澤健
21.9.21 東京都清瀬市
何もない空(くう)を意味したところから、転じて精神の虚脱に、更に転じて実意のないこと、本当でないこと、の意味にも使われるようになりました。そらごと(虚言)などと使う時の「そら」がそれにあたります。
このたびは、さまざまな「そら」の中から、主に秋の空の模様を集めて墨場必携に御紹介します。
21.10.18 東京都清瀬市
21.10.16 東京都清瀬市
そろそろ霜も降り出すという霜降ですが、それぞれの節気を更に三つに分けた七十二候の説明を覗くと、霜降の始めは「霜始降(霜降り始める)、豺乃祭獣(山犬が捕らえた獣を並べて食べる)」とあります。冬に備えた営みなのでしょうか。次の五日は「霎時施 (小雨がしとしと降る)、草木黄落 (草木の葉が黄ばんで落ち始める)」とあります。『万葉集』や『古今集』の多くの歌から、秋の紅葉は時雨が染めるのだという考えを看取ることができます。秋の雨と紅葉には因果関係があると、古代の日本人は見ていたのです。七十二候がこの時期の雨と草木黄落、つまりもみじの始まりを、やはり同じ候に納めているのは興味深いことです。そういう季節なのでしょう。
21.10.18 東京都清瀬市
そして霜降の節気の最後の五日は「楓蔦黄(楓や蔦が黄葉する)、蟄虫咸俯(虫がみな穴に潜って動かなくなる)」。自然界の生きものは静かになりを潜めて、いよいよ紅葉の時期になります。空はますます高く澄みのぼり、木々の紅葉を迎える支度は調ってまいりました。
【文例】 和歌へ