第84回 雨:五月雨 梅雨 建長八年百首歌合 でんでんむし
第84回【目次】
* 和歌
* 散文
* 近現代詩
* みやとひたち
22.6.20 東京都清瀬市
1 くもりはてぬる
22.6.13 東京都清瀬市
いかにせむ 憂きには空を見しものを
くもりはてぬる五月雨(さみだれ)の比(ころ)
民部卿
どうしたらいいだろう。苦しい時にはついつい空を見るのだったが、
すっかり雲がたれ込めてしまう、この梅雨の時期はもう。
鎌倉時代の作。「百首歌合」(建長八年(1256)藤原基家(1203〜1280)主催)に詠まれた歌です。梅雨時のどんよりと暗い空の下、どうにも気持ちの晴らしようがないという訴えが今日(こんにち)のもののように伝わります。
第二句、三句にさらりと明かされる「憂きには空を見」ていたという言葉によって、この歌には現実感が増しました。どうにも難しい事態に弱りながら、空を見あげ、深呼吸して気を取り直すという頑張り方は、皆に覚えがあり、まことに身近なものではないでしょうか。鎌倉時代と言わず、もっと大昔から現在まで、こうして人間は、無力でも日々を放棄することもできず、どうすることもできない自分を励ましては生きて来たのに違いありません。それは季節を問わず、 従って、空を見て慰むことさえできない梅雨時であれ。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
民部卿とある作者は、公卿補任の建長八年の項を見たところでは九条忠高(1213〜1276、補任に「前権大納言正二位藤忠高[※藤は藤原氏の意、小字で九条と傍書]、四月五日任民部卿」)。身内の引き立てがあり、条件に恵まれていたらしく、26才で参議、29才の若さで権中納言にまで昇るという昇進ぶりでしたが、僅か三年の後には官を辞し、位階のみで官職に就かない状態(いわゆる散位)で後半生のほとんどすべてを過ごしました。
順調すぎるほど順調な昇進の途上で何があったのか、事情を語る資料は見つかっておりません。同時代の公家日記「平戸記(へいこき)」(平経高〈1180 〜 1255年〉の日記)にこのことが短く「被抑召、日来固辞」とあるところを解釈すると、忠高は求められて任に就き、その解任は不祥事や急病などのせいではなく、ずっと固辞し続けていた本人の願いが容れられて、ということだったようです。この歌合開催からおよそ十年前のことです。
22.6.26 東京都清瀬市
自ら願って三十代の働き盛りに官界から退いたこの人は、どのような憂さを抱え、どのような気持ちで空を眺めていたのでしょう。
藤原北家高藤流九条家の系図にこの忠高を辿り、眺めると、63年の生涯に子供は男女十人が挙がり、その子等の母として記録に残る人だけでも白拍子も含めて複数の女性が知られています。そこそこ充実した私生活があったかに伺われ、厭世的な隠者を思わせる暮らしの跡には見えないのですが。
新美南吉(1913〜1943)に「でんでんむしのかなしみ」という短編童話がありました。でんでんむしの殻の中には悲しみがいっぱい詰まっていた。ある日それに気づいて嘆くでんでんむしは、実はどのでんでんむしにも、誰にも、それは同じであるとわかった時、嘆くのをやめます。
「かなしみは、だれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。
わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきやならない。」
悲しくも、毅然として生きる勇気を与えられる物語です。新美南吉がまだ東京外国語学校の学生であった22歳頃に書かれたと考証されています。「ごんぎつね」が18歳の時の作品と言いますから、この心深さがあまりにも若くして成ったものであることに驚きます。そのせいではないでしょうが、29歳で亡くなってしまいました。しかし、世に残り、人を勇気づける言葉の力は永遠です。
22.6.16 東京都清瀬市
人にはわからなくても、内に悲しみのない人はいないのでしょう。民部卿忠高が官界に身を置きたくなかった事情は、もしかすると、当時彼の周りにいた人にも本当のところはわからなかったかもしれません。しかし彼には是非そうしたい理由があり、身を引いて、なお空を見あげる理由があり、空に慰められる悲しみがあったということでしょう。
22.6.13 東京都清瀬市
2 五月雨の候
梅雨に入りました。
過ごしにくい季節ですが、総理大臣が替わったり、サッカーのワールドカップは予想に反して白星スタート、目の前で何か大きく動くものがあると気が紛れるのでしょうか、いくらか鬱陶しさを忘れます。
何と言っても堪えるのは湿度。実際の居住環境はもとより、精神も閉塞しているのが一番よくないように思います。中のものを良く動かし、窓を開けて風通しよくしておかないと、心にも黴が生えそうです。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
雑節でいう入梅は現行暦で毎年6月11日頃になります。これは陰暦で見るとおよそ4月28日です。大体この頃に梅雨に入るとすると、古典の梅雨は早くは(陰暦)4月後半には始まっているのです。梅雨の平均日数は約40日ですから、陰暦5月はすっぽり梅雨の中に入ります。陰暦の暦で暮らしていた時代、人々には、梅雨、さみだれは、まさに「五月雨」と意識されたことでしょう。「さみだれ」という言葉に早くからこの表記が当てられたのは、まことに自然と言うべきでしょう。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
信用できる語源説に、「さみだれ」の「さ」は「さをとめ(早少女)」「さなえ(早苗)」「さつき(皐月)」の「さ」と同じであり、その「さ」はどうやら稲作に関係がある言葉であるらしいという説があります。「さみだれ」は現代人には語感が捉えにくいところに、古典語であるだけで何やら優雅に聞こえる言葉ですが、「さをとめ」が「さ」+「をとめ」であるのと同様の構造で、「さみだれ」は「さ」+「みだれ」ですから、本来良い意味の言葉であったとは見えません。やはりこの時期の穏やかでない天候が、その「みだれ」の主な内容と推察されます。
かつての人にとって五月雨は決して優雅でも何でもない憂鬱な蒸し暑い時期の雨と言うに過ぎません。それでもこの雨が早苗を育て、ほかの穀物作物を育んで秋の実りを支えます。この時期の雨は恵みであるという捉え方も古代からのものです。陰暦五月、鬱陶しい雨の季節に、それを代表させるものはほかにいくらでもあったはずですが、敢えて稲作に縁深いとされる「さ」みだれ、「さ」つき、という名が付けられ、残っているのは、この国、温帯モンスーン地域にある日本の暮らしが稲作に拠り、稲の生育に基づくスケジュールが生活の中心部を占めていた古代世界を反映するものと考えられます。
オオヨシキリ 22.6.20 東京都清瀬市
ふる日をばなかなか言わず
晴れやらで くもるをいとふ五月雨の比(ころ)
正徹「草根集」
降る日のことはもう却って何も言わないが、すっきりと晴れずに
曇っているのが、それが苦になる、そんな梅雨の頃
ツバメ 22.6.20 東京都清瀬市
この度の文例 には五月雨、雨の歌を集めました。連載第12回、第36回、第60回(近世のみ)にも文例があります。併せて御利用下さい。また、季節の関連で、新美南吉の童話「でんでんむしのかなしみ」(原文「デンデンムシ ノ カナシミ」)全文を、散文の文例に追加しました。
山中ミミちゃん "オ散歩ニ 来マシタ"
"今日モ 曇ッテルノ "
猩猩蜻蛉(しょうじょうとんぼ) 22.6.19 東京都東清瀬市
* 和歌
* 散文
* 近現代詩
* みやとひたち
22.6.20 東京都清瀬市
1 くもりはてぬる
22.6.13 東京都清瀬市
いかにせむ 憂きには空を見しものを
くもりはてぬる五月雨(さみだれ)の比(ころ)
民部卿
どうしたらいいだろう。苦しい時にはついつい空を見るのだったが、
すっかり雲がたれ込めてしまう、この梅雨の時期はもう。
鎌倉時代の作。「百首歌合」(建長八年(1256)藤原基家(1203〜1280)主催)に詠まれた歌です。梅雨時のどんよりと暗い空の下、どうにも気持ちの晴らしようがないという訴えが今日(こんにち)のもののように伝わります。
第二句、三句にさらりと明かされる「憂きには空を見」ていたという言葉によって、この歌には現実感が増しました。どうにも難しい事態に弱りながら、空を見あげ、深呼吸して気を取り直すという頑張り方は、皆に覚えがあり、まことに身近なものではないでしょうか。鎌倉時代と言わず、もっと大昔から現在まで、こうして人間は、無力でも日々を放棄することもできず、どうすることもできない自分を励ましては生きて来たのに違いありません。それは季節を問わず、 従って、空を見て慰むことさえできない梅雨時であれ。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
民部卿とある作者は、公卿補任の建長八年の項を見たところでは九条忠高(1213〜1276、補任に「前権大納言正二位藤忠高[※藤は藤原氏の意、小字で九条と傍書]、四月五日任民部卿」)。身内の引き立てがあり、条件に恵まれていたらしく、26才で参議、29才の若さで権中納言にまで昇るという昇進ぶりでしたが、僅か三年の後には官を辞し、位階のみで官職に就かない状態(いわゆる散位)で後半生のほとんどすべてを過ごしました。
順調すぎるほど順調な昇進の途上で何があったのか、事情を語る資料は見つかっておりません。同時代の公家日記「平戸記(へいこき)」(平経高〈1180 〜 1255年〉の日記)にこのことが短く「被抑召、日来固辞」とあるところを解釈すると、忠高は求められて任に就き、その解任は不祥事や急病などのせいではなく、ずっと固辞し続けていた本人の願いが容れられて、ということだったようです。この歌合開催からおよそ十年前のことです。
22.6.26 東京都清瀬市
自ら願って三十代の働き盛りに官界から退いたこの人は、どのような憂さを抱え、どのような気持ちで空を眺めていたのでしょう。
藤原北家高藤流九条家の系図にこの忠高を辿り、眺めると、63年の生涯に子供は男女十人が挙がり、その子等の母として記録に残る人だけでも白拍子も含めて複数の女性が知られています。そこそこ充実した私生活があったかに伺われ、厭世的な隠者を思わせる暮らしの跡には見えないのですが。
新美南吉(1913〜1943)に「でんでんむしのかなしみ」という短編童話がありました。でんでんむしの殻の中には悲しみがいっぱい詰まっていた。ある日それに気づいて嘆くでんでんむしは、実はどのでんでんむしにも、誰にも、それは同じであるとわかった時、嘆くのをやめます。
「かなしみは、だれでももっているのだ。わたしばかりではないのだ。
わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきやならない。」
悲しくも、毅然として生きる勇気を与えられる物語です。新美南吉がまだ東京外国語学校の学生であった22歳頃に書かれたと考証されています。「ごんぎつね」が18歳の時の作品と言いますから、この心深さがあまりにも若くして成ったものであることに驚きます。そのせいではないでしょうが、29歳で亡くなってしまいました。しかし、世に残り、人を勇気づける言葉の力は永遠です。
22.6.16 東京都清瀬市
人にはわからなくても、内に悲しみのない人はいないのでしょう。民部卿忠高が官界に身を置きたくなかった事情は、もしかすると、当時彼の周りにいた人にも本当のところはわからなかったかもしれません。しかし彼には是非そうしたい理由があり、身を引いて、なお空を見あげる理由があり、空に慰められる悲しみがあったということでしょう。
22.6.13 東京都清瀬市
2 五月雨の候
梅雨に入りました。
過ごしにくい季節ですが、総理大臣が替わったり、サッカーのワールドカップは予想に反して白星スタート、目の前で何か大きく動くものがあると気が紛れるのでしょうか、いくらか鬱陶しさを忘れます。
何と言っても堪えるのは湿度。実際の居住環境はもとより、精神も閉塞しているのが一番よくないように思います。中のものを良く動かし、窓を開けて風通しよくしておかないと、心にも黴が生えそうです。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
雑節でいう入梅は現行暦で毎年6月11日頃になります。これは陰暦で見るとおよそ4月28日です。大体この頃に梅雨に入るとすると、古典の梅雨は早くは(陰暦)4月後半には始まっているのです。梅雨の平均日数は約40日ですから、陰暦5月はすっぽり梅雨の中に入ります。陰暦の暦で暮らしていた時代、人々には、梅雨、さみだれは、まさに「五月雨」と意識されたことでしょう。「さみだれ」という言葉に早くからこの表記が当てられたのは、まことに自然と言うべきでしょう。
22.6.12 東京都東村山市北山公園
信用できる語源説に、「さみだれ」の「さ」は「さをとめ(早少女)」「さなえ(早苗)」「さつき(皐月)」の「さ」と同じであり、その「さ」はどうやら稲作に関係がある言葉であるらしいという説があります。「さみだれ」は現代人には語感が捉えにくいところに、古典語であるだけで何やら優雅に聞こえる言葉ですが、「さをとめ」が「さ」+「をとめ」であるのと同様の構造で、「さみだれ」は「さ」+「みだれ」ですから、本来良い意味の言葉であったとは見えません。やはりこの時期の穏やかでない天候が、その「みだれ」の主な内容と推察されます。
かつての人にとって五月雨は決して優雅でも何でもない憂鬱な蒸し暑い時期の雨と言うに過ぎません。それでもこの雨が早苗を育て、ほかの穀物作物を育んで秋の実りを支えます。この時期の雨は恵みであるという捉え方も古代からのものです。陰暦五月、鬱陶しい雨の季節に、それを代表させるものはほかにいくらでもあったはずですが、敢えて稲作に縁深いとされる「さ」みだれ、「さ」つき、という名が付けられ、残っているのは、この国、温帯モンスーン地域にある日本の暮らしが稲作に拠り、稲の生育に基づくスケジュールが生活の中心部を占めていた古代世界を反映するものと考えられます。
オオヨシキリ 22.6.20 東京都清瀬市
ふる日をばなかなか言わず
晴れやらで くもるをいとふ五月雨の比(ころ)
正徹「草根集」
降る日のことはもう却って何も言わないが、すっきりと晴れずに
曇っているのが、それが苦になる、そんな梅雨の頃
ツバメ 22.6.20 東京都清瀬市
この度の文例 には五月雨、雨の歌を集めました。連載第12回、第36回、第60回(近世のみ)にも文例があります。併せて御利用下さい。また、季節の関連で、新美南吉の童話「でんでんむしのかなしみ」(原文「デンデンムシ ノ カナシミ」)全文を、散文の文例に追加しました。
山中ミミちゃん "オ散歩ニ 来マシタ"
"今日モ 曇ッテルノ "
猩猩蜻蛉(しょうじょうとんぼ) 22.6.19 東京都東清瀬市
【文例】 和歌へ