2009年7月20日

第62回 夏やせによしといふものぞ

第62回【目次】         
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    * 和歌
    * 訳詩・近現代詩
    * 唱歌・童謡
    * みやとひたち

1 土用ウナギ

  意外に早く関東は梅雨が明けました。鬱陶しい雨の時期よりはましなものの、高温多湿の日本の夏は亜熱帯の気候です。厳しい季節の到来ですね。


11hima1.jpg                             21.7.11 東京都清瀬市

  暑さで食が進まない。とかく冷たい物ばかりを摂りがちになり、その結果胃腸の働きが弱ることがさらなる食欲不振のもととなる悪循環。きちんと食べることができるというのが健康維持の要件ですね。

  それは分かっていても食べにくい。そこで、夏バテをしないために努めて滋養のあるものを摂ろうとは、大昔から自然に人が思うことでしたでしょう。

  
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  夏の土用には鰻を食べるというのが今日では決まり事になっています。専門店はもちろんスーパーの鮮魚・総菜売り場もその宣伝で賑やかです。いったい全国でどれほどの鰻がこの日のために蒲焼になっているのでしょう。金子みすず流に気を回せば、この日はウナギにとっては聖バーソロミュー並みの大虐殺日でありましょう。

  土用ウナギの由来には諸説がありますが、巷間伝わっているのは、幕末の奇才平賀源内[享保13年(1728)〜 安永8年(1780)]が、夏に鰻が売れないので困っている店主に相談を受けて、さびれた鰻屋を再興するために仕掛けたのだという話です。もともと土用丑の日には丑にちなんで「う」のつくものを食べれば夏負けしないとか、黒い食物を摂るのが体に良いとかいう民間伝承があったようです。源内はそれを踏まえて鰻屋に「本日丑の日」という看板を出させました。鰻が実に「う」のつく黒い食物であったことをアピールしたというのです。このアイディアは大当たりして、ほかの鰻屋もこれに倣い、一般化したというのですが。

  多能の源内にはいかにもと思わせるエピソードですが、これは事実かどうか怪しい話です。

 
読書Miy1.jpg      起キタラ ウナギジャナクテ ビンチョーマグロ ネ
      冷蔵庫カラ 出シタテハ ダメダカラネ
                                        


2 奈良8世紀の痩せっぽち

  夏に努めて鰻を食べるというのはすでに古代からある習慣です。『万葉集』にその歌があることはよく知られています。

   痩せたる人を嗤咲(わら)ふ歌二首

    石麿(いはまろ)に 吾れもの申す
    夏痩せによしといふものそ 鰻(むなぎ)とり食(め)せ
                    『万葉集』巻十六 3853  大伴家持
    (石麻呂殿に申し上げる。夏やせに効能があるというものですよ、鰻を
     どうぞ召し上がって下さい。)
 
    痩す痩すも生けらばあらむを
    はたやはた 鰻をとると川に流るな
                         巻十六 3854  大伴家持
    (痩せながらでも生きていればそれでよかろうに、鰻を漁ろうなどと頑張って
     軽い体をうっかり川に流されたりなさるなよ。)

  この石麿氏とはどういう人であったか。『万葉集』に石田連老(いしだのむらじ おゆ)と名が見えますが、伝記は知られていません。家持の知人で、常からひどく痩せた人であったらしい。

    吉田連老といふひとあり。字(あざな)は石麿(いはまろ)と曰(い)へり。
    所謂(いはゆる)仁敬の子なり。その老、人と為り身体甚(いた)く痩せたり。
    多く喫飲すれども、形飢餓に似たり。此に因りて大伴宿禰家持の、聊(いさ
    さ)かにこの歌を作りて、戯れ咲(わら)ふことを為せり。

  「仁敬の子」とあるのは系図的な説明かと見えますが、とすると字(あざな)であろう「仁敬」が分かりません。それで「仁敬」の行いで知られている人の意味かとも解釈されています。    
  この記事に拠れば、石麿(=老)氏はひどく痩せた人で、たくさん飲食するのだが太らず、見た目は飢餓の人のようであった。痩せの大食いのタイプでしょう。家持がそれをからかっているのは、遠慮のない間柄だったのでしょうが、二首目などはちょっと巫山戯が過ぎているような気も致しますね。太ろうと思って鰻を漁ろうなんて思って川に入って流されるなよ、太ろうと思ってうっかり死んだりするなよ、と言うのです。

  
本Hit.jpg               痩セスギハ  アブナイ ナー  ゴ飯 増ヤソウヨー

  今は亡くなってしまった人ですが、色白化粧で知られたさる美容研究家は健康食品の開発にも熱心でした。その人が「食」の研究に乗り出した契機は子息の摂食障害であったという話を聞きました。そこまでは無理のない話です。しかし、拒食症でひどくやつれたその子息は、ある時ベランダに出て下の道を帰る客を見送る最中、風に吹き飛ばされて亡くなったのだと言うのです。それほど軽い体に痩せてしまっていたのだと。これを聞いた時、不謹慎にも思い出したのが『万葉集』のこの川に流されるなという3854番の戯れ歌でした。

  
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  美容家の不幸を教えてくれたのは20年来の付き合いがある中国人の友人で、信用の出来る人ですが、以来いささか耳が素直すぎる人なのかも知れないと改めて思っております。本当に良い人ですが。

  ともあれ、家持の戯れ歌のお陰で、奈良時代にすでに夏負け防止に鰻を食べることが普通に行われていたらしいこと、さらには、当時も健康が栄養で維持されていると意識されていたこと、が分かるのは、よろず知りたがり屋にはありがたいことです。
  そういうわけで、夏こそ鰻をという発想は幕末を待つことなくわが国の風物誌にあったようですから、源内説の前提になっている、夏には鰻が売れないので困っている店主、というのは自然ではありません。よほどダメな店だったとでも言うならともかく。

  
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3 滋養と殺生と 

  平賀源内の世代からもう一代下った頃、本草学者に佐藤成裕(さとうせいゆう1762〜1848) という人がいました。江戸の生まれで薩摩、米沢、会津、備中松山の各藩に招かれて見聞を広め、寛政11年 (1799) 以後は水戸藩に仕えた学者です。椎茸の人工栽培の解説書を始めて記すなど実学に通じていた一方、植物の精霊の存在を大まじめに語るなど、論攷は多岐にわたります。その随筆『中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)』も淡々と百科奇談を綴って興味深いのですが、中に鰻の話もいくつか見えます。

  その一つは、備中国の鰻屋の話。夢に現れた鰻に「自分は獲られてやがて死ぬが、どうせ裂かれて死ぬなら仲良く連れ添った夫婦でいっしょに死にたい」と訴えられた話です。ちょうどそのとき、店の生け簀には思い当たる斑の入った鰻がいた。気になるまま裂かずに置いておくうちに、また同じ斑入りの鰻が店に入った。一緒の生け簀に入れると二匹は嬉しそうに戯れている。これを見て店主は鰻を水に放し、鰻屋を畳んだということです。それとは別の話に、鰻屋が発狂して俎板の上に横になり、自分の喉に包丁を突き立てて死ぬ話なども見えます。長年鰻を裂いてきた報いだと人が噂したと記しています(以上巻之九)。

  『中陵漫録』の記述は、夏の強壮食品として鰻を好んで取る一方で、江戸の人に殺生を忌む気持ちも強かったことを覗わせます。古代からあり永遠に続く問題ではあります。小才の利く詩人は「鰯の弔い」といった思いつきでもしかすると贖罪でき、素朴な鰻屋はやむなく商売替えしたりすることにもなるのです。

 
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  さて食欲不振のほか、夏バテのもう一つの大きな要因とされるのは睡眠不足だそうです。熱帯夜などの寝苦しさを言うのでしょうか。どんな時でも横になってから就寝まで10秒の私には無縁の苦しみです。むしろ、したいことがあってまだ寝たくないと思うような時でも、用事が残っていて起きていなければならない時でも、ふと気がつくと寝ている。そんなわけで、常々疑っているのは、私の傍で勉強の友をしている猫たちが実は眠気を発しているのではないか、ということです。あまりにも睡すぎる。

  それでも眠れない苦しみを知らないで済むのは幸せな体質なのだと思います。季節を問わず不眠のつらさを訴える人は少なくありません。それは時として鬱病の因にもなる深刻さだと言います。私のような者には察し余る苦しみです。申しわけありません。

【文例】 和歌

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