第53回 弥生:うらら 桃 ももの花 ひな祭り
第53回【目次】
* 漢詩・漢文
* 和歌
* 散文
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
エナガ 21.2.8 東京都清瀬市
弥生三月になりました。古典世界では、弥生の陽気としてすぐに浮かぶ言葉は「うらら」です。ウララは天候の明るく柔らかいさまを言う言葉で、日差しがあふれ、晴れやかに静かな様子を表します。
弥生になれば、空のけしきもものうららかなり。『源氏物語』柏木
室町時代に書かれた『温故知新書』(文明16年(1484)成立、新羅社宮司大伴泰広(大伴広公)著、所収語数約13,000)という国語辞書には、今日ノドカの表記によく当てる「長閑」にウララという訓みが付いています。類義語には使い分けの難しいものが少なくありませんが、ことにこの「長閑」の場合のように漢字の表記が同じであったりすると、そこに集まる複数の訓読みの言葉(たとえばウララとノドカのような)の繊細な違いは一層気づきにくくなるでしょう。
明るく柔らかく穏やかの要素は共通しているノドカとウララ(ウララカ)の意味の違いは、一言で言えば、晴れやかさがあるかないかです。陽気とは別に、清少納言は元日がウララカであると書いています。ウララ(ウララカ)にはただ穏やかで明るいだけではなく、くっきりとした鮮明さがあるのです。
さらにわかりやすい例として、『徒然草』にはこんな例があります。
[人にものを尋ねられたら]うららかに言ひ聞かせたらんは......
このウララカは天候を離れてまったく抽象的な形容語として使われています。現代語にするなら「明快に」とも訳すべきでしょう。
これと比べるとノドカの穏やかさはもっとゆったりしたものと分かります。もともとノドカのノドは「宥める」や「なだらか」のナダと同じ語(母音交代形)で、ものごとを緩やかに取り扱う意味が潜んでいるのです。同じ春の日でも、ゆったりゆっくりで、睡くなりそうなさまはノドカでなくてはならず、ウララでは表せないのです。
陰暦弥生と季節がずれている現代、ウララ未満の陽気で桃の節句がやって来ます。ひな祭りに桃の花を飾るのは古来の習慣で、桃でなくてはならない所以があるのです(連載第5回 桜の前に:三月・桃・神仙世界 参照)。けれども実際の桃は桜とほぼ同じ時期に花咲く植物ですから、自然界にはまだほとんど見かけません。こんなところも過去の習慣を受け継ぎにくくしているのだろうと残念に思います。
河津桜 21.2.20 東京都清瀬市
2 桃の花
桃之夭夭 灼灼其華
之子于帰 宜其室家
桃之夭夭 有賁其実
之子于帰 宜其家室
桃之夭夭 其葉蓁蓁
之子于帰 宜其家人
桃の夭夭[えうえう]たる
灼灼[しやくしやく]たる其[そ]の華
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の室家[しつか]に宜[よろ]しからん
桃の夭夭たる
賁[ふん]たる其の実[み]有[あ]り
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の家室[かしつ]に宜[よろ]しからん
桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁[しんしん]たり
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の家人[かじん]に宜[よろ]しからん
「桃夭」『詩経』周南
『詩経』はいわゆる四書五経の一つで中国最古の詩篇です。春秋時代の人 孔子(紀元前551〜紀元前479)が当時歌われていた民謡や廟歌を採録編集したとされます。私たちが見慣れている漢詩が整う前のもので、形式は基本的に四字句が連続します。題の「桃夭」は詩の冒頭をそのまま挙げたもので、古いスタイルの命名法です。「論語」の篇名の付け方が同じです。
この「桃夭」は若い娘の結婚に歌われた詩です。三段の詩にそれぞれ詠まれる桃の花、桃の実、桃の茂りは、美しく、健康で(子孫を残し)、婚家に長い繁栄をもたらす理想的な花嫁を象徴していると見えます。中国では結婚式の席上で歌われることは現代にも受け継がれているといいますから、この歌の歴史は軽く二千五百年を超えているのです。人が望む素朴な幸せはずっと変わらないということなのでしょう。
梅 21.2.20 東京都清瀬市
* 漢詩・漢文
* 和歌
* 散文
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
エナガ 21.2.8 東京都清瀬市
弥生三月になりました。古典世界では、弥生の陽気としてすぐに浮かぶ言葉は「うらら」です。ウララは天候の明るく柔らかいさまを言う言葉で、日差しがあふれ、晴れやかに静かな様子を表します。
弥生になれば、空のけしきもものうららかなり。『源氏物語』柏木
室町時代に書かれた『温故知新書』(文明16年(1484)成立、新羅社宮司大伴泰広(大伴広公)著、所収語数約13,000)という国語辞書には、今日ノドカの表記によく当てる「長閑」にウララという訓みが付いています。類義語には使い分けの難しいものが少なくありませんが、ことにこの「長閑」の場合のように漢字の表記が同じであったりすると、そこに集まる複数の訓読みの言葉(たとえばウララとノドカのような)の繊細な違いは一層気づきにくくなるでしょう。
明るく柔らかく穏やかの要素は共通しているノドカとウララ(ウララカ)の意味の違いは、一言で言えば、晴れやかさがあるかないかです。陽気とは別に、清少納言は元日がウララカであると書いています。ウララ(ウララカ)にはただ穏やかで明るいだけではなく、くっきりとした鮮明さがあるのです。
さらにわかりやすい例として、『徒然草』にはこんな例があります。
[人にものを尋ねられたら]うららかに言ひ聞かせたらんは......
このウララカは天候を離れてまったく抽象的な形容語として使われています。現代語にするなら「明快に」とも訳すべきでしょう。
これと比べるとノドカの穏やかさはもっとゆったりしたものと分かります。もともとノドカのノドは「宥める」や「なだらか」のナダと同じ語(母音交代形)で、ものごとを緩やかに取り扱う意味が潜んでいるのです。同じ春の日でも、ゆったりゆっくりで、睡くなりそうなさまはノドカでなくてはならず、ウララでは表せないのです。
陰暦弥生と季節がずれている現代、ウララ未満の陽気で桃の節句がやって来ます。ひな祭りに桃の花を飾るのは古来の習慣で、桃でなくてはならない所以があるのです(連載第5回 桜の前に:三月・桃・神仙世界 参照)。けれども実際の桃は桜とほぼ同じ時期に花咲く植物ですから、自然界にはまだほとんど見かけません。こんなところも過去の習慣を受け継ぎにくくしているのだろうと残念に思います。
河津桜 21.2.20 東京都清瀬市
2 桃の花
桃之夭夭 灼灼其華
之子于帰 宜其室家
桃之夭夭 有賁其実
之子于帰 宜其家室
桃之夭夭 其葉蓁蓁
之子于帰 宜其家人
桃の夭夭[えうえう]たる
灼灼[しやくしやく]たる其[そ]の華
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の室家[しつか]に宜[よろ]しからん
桃の夭夭たる
賁[ふん]たる其の実[み]有[あ]り
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の家室[かしつ]に宜[よろ]しからん
桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁[しんしん]たり
之の子于[ここ]に帰[とつ]ぐ
其の家人[かじん]に宜[よろ]しからん
「桃夭」『詩経』周南
『詩経』はいわゆる四書五経の一つで中国最古の詩篇です。春秋時代の人 孔子(紀元前551〜紀元前479)が当時歌われていた民謡や廟歌を採録編集したとされます。私たちが見慣れている漢詩が整う前のもので、形式は基本的に四字句が連続します。題の「桃夭」は詩の冒頭をそのまま挙げたもので、古いスタイルの命名法です。「論語」の篇名の付け方が同じです。
この「桃夭」は若い娘の結婚に歌われた詩です。三段の詩にそれぞれ詠まれる桃の花、桃の実、桃の茂りは、美しく、健康で(子孫を残し)、婚家に長い繁栄をもたらす理想的な花嫁を象徴していると見えます。中国では結婚式の席上で歌われることは現代にも受け継がれているといいますから、この歌の歴史は軽く二千五百年を超えているのです。人が望む素朴な幸せはずっと変わらないということなのでしょう。
梅 21.2.20 東京都清瀬市
【文例】 漢文へ