第49回 百年に一度の新年
第49回【目次】
* 漢文
* 和歌
* 散文
* 近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
第49回 百年に一度の新年:うれし・富士山・松・初梅・霜
1 慶賀の歌
20.12.28 東京都清瀬市
うれしきを何につつまん
からごろも 袂[たもと]ゆたかに裁[た]てといはましを
『古今和歌集』865 詠み人知らず
※つつむ 包むの意と見せないように内に秘める意との掛詞
(このうれしさを何に包みましょうか。こんなことなら衣の袂をゆったり
大きく仕立てるように言っておくのだったのに[この袂では包みきれない
うれしさです]。)
うれしさを昔は袖につつみけり
こよひは身にもあまりぬるかな
『和漢朗詠集』773
(うれしさを昔は袖に包んだものでした。今宵のうれしさはとても袖には
包みきれません。身にも余って溢れ出すばかりです。)
明けましておめでとうございます。新しい年になりました。
『古今和歌集』詠み人知らずの一首は、大いなるうれしさというものを比喩的に表した歌です。「賀歌」(巻七)ではなく「雑歌」(巻十七)にあることから、長寿を祝う賀の宴に詠まれたものではなさそうです。詳しい事情は伝わっていませんが、程の良い分かりやすい比喩は、『和漢朗詠集』に見るように後の詩歌にさまざまな形で引かれ、この歌が愛誦されてきたことを伺わせます。
去る歳は秋に発した世界規模の恐慌のもと、厳しい不景気のうちに暮れました。今日わが国は百年に一度と言われる経済危機のただ中にあり、政権は不安定、また日本と関係の良かったアメリカの共和党政権が4月で終わるという世界情勢でもあれば、年頭にあたり、とてものこと、のどかな観測は持てない年になってしまいました。先行きの見えない世の中、この大波の中なればこそ、ひとしお一年の平穏と多幸とを祈らずにいられません。
日本には古く言霊(ことだま)信仰というものがありました。言葉そのものに霊力が宿り、言(言葉)によって事(現実)が実現し動かされるという考え方です。この習わしによるならば、望ましくないことは口に懸けず、実現されてほしいことをもっぱら言葉にするべきなのです。心配事や懸念はつつみ置き、黙って智恵を使えばよいのです。まずはあらたまの年の始めを言祝ぎたいと思います。
20.12.27 東京都清瀬市から望む富士山
2 百年に一度の新年
ところで、不謹慎なようですが、私はこの"百年に一度"という形容に大いに心を引かれます。この周期は人の一生に一度あるか無いかの巡り合わせです。
江戸時代の仇討ち物(講談「太閤記」、「赤穂四十七士伝」、「宮本武蔵」等)で、探し求めていた仇敵に巡り会えた時の決まり文句に「ここで遭えたが百年目」という科白があります。「盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)、優曇華(うどんげ)の花、待ち得たる今日只今(こんにちただいま)...ここで遇ったが百年目、いざ尋常に勝負勝負」という口上です。
盲亀の浮木は目の見えない亀が泳ぎ疲れ、休みたいと思う時に大海で浮き木に偶然めぐり合う希さを言い、また優曇華の花は三千年に一度しか咲かないことになっています。その日そのときが滅多にないことがたまたま実現したタイミングであって、百年に一度起きることが起き、三千年に一度咲く花が咲く、ちょうどその三千年目であったと、仇との遭遇を願ってもない絶好の機会であることを言うのです。"百年目"というのは、そのような希有の巡り合わせを象徴しています。これを逃せばあと百年はこの機会がないのです。
現在の苦境が本当に"百年に一度"のことならば、私たちは歴史に残る一場面に遭遇しているのに間違いありません。ことは経済の危機であり、他の時代にない苦労を皆ですることになるのかも知れませんが、望んでも見られないものをたまたま見ることになるという感慨はあります。また、こうしたことがあると、一個人にはどうすることもできない時代を覆う大きな運命というものがあることが改めてわかります。
ジョウビタキ 20.12.26 東京都清瀬市
さて、社会情勢の上ではなかなか厳しい"百年に一度"の巡り合わせとなりましたが、本当はどの年もそれぞれに百年に一度、というより、そのときだけのかけがえのない一時です。大不況であれ、政情不安であれ、今はたまたまそうなのであったと思えば、大騒ぎすることもないのかもしれません。今年もみやは本の周りで遊び、ひたちは毎日おいしくご飯を食べて大きくなってゆくことでしょう。気の早い梅はもう花開きはじめ、小鳥は薄氷の上を日向に飛んで、まだ遠いけれども確かに近づいている春の気配に耳を澄ませているようです。時間は皆に平等に進み、季節はめぐってゆきます。よい一年でありますように。
霜の野原に遊ぶハクセキレイ 20.12.24 東京都清瀬市
キジ 20.12.28 東京都清瀬市
20.12.28 東京都清瀬市
* 漢文
* 和歌
* 散文
* 近現代詩
* 唱歌・童謡
* みやとひたち
第49回 百年に一度の新年:うれし・富士山・松・初梅・霜
1 慶賀の歌
うれしきを何につつまん
からごろも 袂[たもと]ゆたかに裁[た]てといはましを
『古今和歌集』865 詠み人知らず
※つつむ 包むの意と見せないように内に秘める意との掛詞
(このうれしさを何に包みましょうか。こんなことなら衣の袂をゆったり
大きく仕立てるように言っておくのだったのに[この袂では包みきれない
うれしさです]。)
うれしさを昔は袖につつみけり
こよひは身にもあまりぬるかな
『和漢朗詠集』773
(うれしさを昔は袖に包んだものでした。今宵のうれしさはとても袖には
包みきれません。身にも余って溢れ出すばかりです。)
明けましておめでとうございます。新しい年になりました。
『古今和歌集』詠み人知らずの一首は、大いなるうれしさというものを比喩的に表した歌です。「賀歌」(巻七)ではなく「雑歌」(巻十七)にあることから、長寿を祝う賀の宴に詠まれたものではなさそうです。詳しい事情は伝わっていませんが、程の良い分かりやすい比喩は、『和漢朗詠集』に見るように後の詩歌にさまざまな形で引かれ、この歌が愛誦されてきたことを伺わせます。
去る歳は秋に発した世界規模の恐慌のもと、厳しい不景気のうちに暮れました。今日わが国は百年に一度と言われる経済危機のただ中にあり、政権は不安定、また日本と関係の良かったアメリカの共和党政権が4月で終わるという世界情勢でもあれば、年頭にあたり、とてものこと、のどかな観測は持てない年になってしまいました。先行きの見えない世の中、この大波の中なればこそ、ひとしお一年の平穏と多幸とを祈らずにいられません。
日本には古く言霊(ことだま)信仰というものがありました。言葉そのものに霊力が宿り、言(言葉)によって事(現実)が実現し動かされるという考え方です。この習わしによるならば、望ましくないことは口に懸けず、実現されてほしいことをもっぱら言葉にするべきなのです。心配事や懸念はつつみ置き、黙って智恵を使えばよいのです。まずはあらたまの年の始めを言祝ぎたいと思います。
2 百年に一度の新年
ところで、不謹慎なようですが、私はこの"百年に一度"という形容に大いに心を引かれます。この周期は人の一生に一度あるか無いかの巡り合わせです。
江戸時代の仇討ち物(講談「太閤記」、「赤穂四十七士伝」、「宮本武蔵」等)で、探し求めていた仇敵に巡り会えた時の決まり文句に「ここで遭えたが百年目」という科白があります。「盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)、優曇華(うどんげ)の花、待ち得たる今日只今(こんにちただいま)...ここで遇ったが百年目、いざ尋常に勝負勝負」という口上です。
盲亀の浮木は目の見えない亀が泳ぎ疲れ、休みたいと思う時に大海で浮き木に偶然めぐり合う希さを言い、また優曇華の花は三千年に一度しか咲かないことになっています。その日そのときが滅多にないことがたまたま実現したタイミングであって、百年に一度起きることが起き、三千年に一度咲く花が咲く、ちょうどその三千年目であったと、仇との遭遇を願ってもない絶好の機会であることを言うのです。"百年目"というのは、そのような希有の巡り合わせを象徴しています。これを逃せばあと百年はこの機会がないのです。
現在の苦境が本当に"百年に一度"のことならば、私たちは歴史に残る一場面に遭遇しているのに間違いありません。ことは経済の危機であり、他の時代にない苦労を皆ですることになるのかも知れませんが、望んでも見られないものをたまたま見ることになるという感慨はあります。また、こうしたことがあると、一個人にはどうすることもできない時代を覆う大きな運命というものがあることが改めてわかります。
さて、社会情勢の上ではなかなか厳しい"百年に一度"の巡り合わせとなりましたが、本当はどの年もそれぞれに百年に一度、というより、そのときだけのかけがえのない一時です。大不況であれ、政情不安であれ、今はたまたまそうなのであったと思えば、大騒ぎすることもないのかもしれません。今年もみやは本の周りで遊び、ひたちは毎日おいしくご飯を食べて大きくなってゆくことでしょう。気の早い梅はもう花開きはじめ、小鳥は薄氷の上を日向に飛んで、まだ遠いけれども確かに近づいている春の気配に耳を澄ませているようです。時間は皆に平等に進み、季節はめぐってゆきます。よい一年でありますように。
【文例】 漢詩へ